慣れたはずのコロナ禍生活でくすぶる小さな違和感 ジュンク堂書店員さんおすすめの本
記事:じんぶん堂企画室
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コロナウイルスの流行により変化した生活様式が浸透して既に1年が経とうとしています。マスクを必ず付け、家族以外とは食事をせず、人との距離に注意するなどといった行動、そのひとつひとつは決して難しいものではなく、たまに不便を感じる時があっても、私たちはなんなくその生活をこなしています。
とは言え、やはりこの生活がいつまで続くのだろうかということはふと頭をよぎりますし、さらに気になるのが、いざ、もうマスクを外していい、元の生活に戻りましょうとなった時、自分はその生活に戻れるのかということです。
マスクで顔の半分が隠れているので表情はよく読み取れないまま、まなざしと言葉だけでの、あるいは画面越しでの制限されたコミュニケーションが続いていますが、リモートワーク体制も整備されるなどこの生活にも慣れて、特に大きな不便を感じているわけではないという人も多いと思います。
ただ、この従来のコミュニケーションにあった部分が常に欠けている状態は、やはり私たちに何らかの影響を及ぼしているのではないでしょうか。心のどこかですぶり続ける小さな違和感。明らかに何かが遮断されている気がするけれど、その正体は一体何なのか?
そんなことを考えている折、伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ)が刊行されました。伊藤亜紗さんは『目の見えない人は世界をどう見ているのか』『記憶する体』などで専門の美学の観点から、新しい身体論を論じてきましたが、今回は手、触覚に焦点をあてています。「さわる」「ふれる」という行為は、現在制限されているコミュニケーションです。元々気遣いが必要な行為ですが、ウイルスがいるかもしれないという前提が加わり、より一層ハードルの高いものとなっています。
伊藤さんは、西洋哲学の伝統においては五感の中でも「視覚」が上位の感覚とされ、「触覚」は下位とみなされてきたと解説します。「視覚」が対象と距離をとり、自己を切り離して認識する観念的な感覚である一方、「触覚」は相手との距離がゼロであり自己の快不快や欲望と結びつきやすい動物的な感覚だとされてきました。ただ、見逃してはいけないのが、ここで想定されている触覚が「ふれる」ではなく「さわる」であったということです。伊藤さんはこの哲学における「さわる」の議論を出発点とし、「ふれる」とは何かに踏み込んでいきます。
伊藤さんが参照するのは「さわる」が一方的なもの、「ふれる」を相互的なものだとする哲学者、坂部恵さんによる定義です。そして、18世紀ドイツの哲学者ヘルダーの、触覚とは対象の「内部を捉える感覚」なのだという議論。伊藤さんは「さわる」にせよ「ふれる」にせよ、触覚とはそのさわり方、ふれ方によって対象から得られる情報が違ってくるものだとしながら、さらに「ふれる」という行為はまなざしでは捉えられない対象の内部に到達することのできる行為だと言います。
確かに、一方的に何かを「さわる」とき、その人の注意は対象の表面(ザラザラか、つるつるかなど)にまでしかいっていない気がします。一方で「ふれる」とき、その人は表面への関心以上の思いを対象に持っているのでしょう。大事にしているのか、心配しているのか、壊れないように気をつけているのか。そのように「ふれる」からこそ対象から得られる情報があります。このように、触覚には、まなざしでは得られないものを相互に伝え合い感得する可能性が潜んでいるのです。
このような伊藤さんの議論を読んでいて、同じように言外でのやり取りが活発に行われるコミュニケーションとして、諏訪正樹編『「間合い」とは何か』(春秋社)で語られている「間合い」について思い至りました。
「間合い」というと空手や合気道などの武道を思い浮かべますが、人は日常においても「間合い」という感覚をなかば無意識的に働かせ、人との距離を調整し、自分の「間合い」を作ろうとしながら生きています。それは混雑した駅で人とぶつからないように上手く動くためなどのほか、日常会話や、例えばカフェに「居る」だけのときにでも行われていると言います。
諏訪さんによると、人が間合いを形成するとは、相手の「エネルギーのようなもの」を感じ取るだけではなく、自分のエネルギーも認識することで、それを融合させていこうとする作業なのだと言います。
そして本書の中ではその「エネルギーのようなもの」の具体例を、場面ごとに解析する作業が行われます。「視覚」のように離れたところから相手を認識しているだけではそこに「間合い」を作ることはできません。自分の意志というエネルギーを開示し、相手のエネルギーも感じ取ろうとするという見えない相互行為を重ねることで、はじめて「間合い」は形をなします。
考えてみればこのような「間合い」形成の試みは、人と生活する際に必ず行われています。その過程は、億劫だったり、気後れしたり、傷つけたり傷つけられたりすることもありますが、それと向き合わない限りは自分の「間合い」を作ることはできないのです。
気にかかるのはこれらの「触覚」「間合い」といったある意味では骨の折れる行為が、他人と距離をとることが推奨されている現在、ある程度免除され得るということです。それは一方で気楽でもありますが、この世界には、距離をとって「視覚」的に他人を観察するだけでは理解できないことが溢れています。
ここで立ち寄りたいのが、『手の倫理』でも取り上げられていた山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)の議論です。山岸さんは、相手を信用するという行為について、不確実性が低い社会で起こるのならば「安心」で、不確実性が高い社会であれば「信頼」であると分類します。
かつての日本には終身雇用などの「日本型システム」の中で安定した「安心社会」がありましたが、そのシステムの崩壊と共に「安心」も崩壊しました。しかしそれは日本が「信頼社会」へ移行するための良い契機だということを山岸さんは20年前に提示しています。固定した「安心社会」に留まることは、よそ者への不信と表裏一体であり、「信頼」を育むことはできないからです。「安心」と引き換えにより自分に適した相手との関係を求める機会を失っていることになります。
不確実性の高い社会で相手を信頼することは確かにリスクが高いように感じられますが、だからこそそこでより良く生きる方法とは、自己を開示し相手を知ろうとするという行為を繰り返すことで、信頼できるものを判断する社会的知性を身につけることなのです。
ここで見られる相互性は、「ふれる」そして「間合い」にも見られました。「ふれる」と「間合い」にも「信頼」が通底していることが感じられます。
世界的に見られることでもありますが、格差の増大などからこの社会の不確実性は高まる一方、それが故に「よそ者への不信」はとどまることを知りません。そこに来てコロナウイルスによるコミュニケーションの遮断。
コロナ禍の今、マスクも、距離を置いて接触を避けることも、社会の「安心」を確保するために必要なことです。ただ、今の私たちは、ウイルスから守られているだけではなく、距離感、表情など、世界に身体を晒すことで起こりうる摩擦から過剰に守られていると感じます。
今の状況が終わりを迎えた時、再び世界を信頼して身を委ねることはできるのでしょうか。私たちがいま何かを制限されているということが慌ただしい日々の生活の中に埋もれてしまわないよう、たまには思い返せるようにしたいと思っています。