投票用紙は「紙でできた石つぶて」 アダム・プシェヴォスキさん(ニューヨーク大学政治学部教授)
記事:白水社
記事:白水社
【著者インタビュー動画:Entrevista Adam Przeworski】
政権が変わるかもしれないという見通しは、紛争の平和的処理をもたらすかもしれない。
この主張を単純化して理解するために、歪んでいないとは限らないコインを使い、コイン投げで政府が選ばれる状況を想定しよう。
コインの「表」は現政権の再任、「裏」は退陣を意味する。このように「勝者」と「敗者」が指定される。この指定は、勝者と敗者がすべきこと、すべきでないことについての指示でもある。
勝者は、ホワイトハウスやピンクハウス、または宮殿に住まいを移さなければならない。そこにいるあいだ彼らは、憲法の制約内で自分自身と自分の支持者に有利なことができるが、任期の終わりがきたらふたたび同じコインを投げなければならない。敗者は公邸に引っ越せず、勝者に与えられるもの以上には得るものがないことを受け入れなければならない。
支配の権限が抽選で決まる場合、市民は、政権着任前であろうが着任後であろうが選挙を通じて制裁を課すことはできず、現職は在職中に良く振る舞うための選挙上のインセンティブを持たない。抽選で政権を選ぶことで、政府のパフォーマンスとその地位に居続けることとは無関係になり、再選を目指してよりよく市民を代表しようと政府が行動するとは期待できない。要するに、選挙と代表性とのあいだには関係がなくなってしまう。
しかし、政府が交代するだろうという見通しは、敵対する政治勢力のあいだで、暴力に訴えるのではなく、ルールの遵守を促すだろう。敗者は今回のコイン投げの結果を受け入れることで一時的に苦しむが、次回逆転できる可能性が十分にあれば、政権奪取のために暴力に訴えるよりも、コイン投げの結果に従うほうを選ぶであろう。同様に、勝者は、再度コイン投げはしたくはないかもしれないが、それでも、権力が奪取された際に暴力的な抵抗を引き起こすよりは、平和裡に退陣したほうがましであろう。
ある選挙での敗者の視点から状況を検証してみよう。彼らは力ずくで権力を掌握するために暴力に立ち戻るか、負けたコストを受け入れて次回のコイン投げで勝つのを待つか、いずれかの選択に迫られている。敗者の選択は、暴力に訴えた際に勝つ可能性、暴力的に争う場合のコスト、敗者として支配されることにともなう損失、そして次回勝利する可能性に依存する。彼らの選択はどちらにもなる可能性があるが、勝者がとる政策が極端でない限り、あるいは次の機会で勝つチャンスが十分にある限り、彼らは次の機会を待つことにするだろう。
一方で勝者は、敗者が武力に訴えるのを防ぐためには、政策を穏健にしなければならないこと、また、現在の敗者が将来的に勝てる可能性を潰すように現職の優位性を乱用すべきでないことを知っている。コイン投げによる紛争の処理は、相手側も同じように行動するという条件のもとでは、平和裡にチャンスを待つのがそれぞれにとって最良の選択であるという状況を生み出す。流血は、政権交代が期待できるという事実だけで回避される。
2000年のアメリカの大統領選挙を考えてみよう。投票に行った有権者のほぼ半数にのぼる人びとは、この選挙結果に失望していた。しかし彼らは、2004年には勝てる機会が来るであろうことを知っていた。そして2004年を迎え、選挙結果は疑う余地のない負けだったので、さらに失望した。それでも彼らは2008年に期待していた。そして、ジョージ・W・ブッシュとディック・チェイニーを選出し、さらに再選させた国で、2008年にバラク・オバマが選ばれると誰が予想しただろうか。アメリカ人の大多数が、4年後の敗北を期待してドナルド・トランプの勝利を受け入れるのも、これと同じである。
しかし私たちは、ランダムに結果を生む装置を使っているのではなく、投票をするのである。
投票とは、意志の上に意志を重ねることである。つまり、投票によって決定が下される場合、自分とは異なる意見を持つ人や、自分の利益に反する決定に従わなければならない人が生じる。投票は勝者と敗者を生み出し、たとえ制約の範囲内であったとしても、勝者が彼らの意志を敗者に押しつけることを正当化する。
投票による決定とは、そうでない場合と比べ、どのような違いがあるのだろうか。ひとつの答えは、投票権があることで、投票結果を尊重する義務を人びとに課しているというものである。つまり、敗者が決定に従う理由は、自発的に参加した決定プロセスの結果に従う義務があると考えているからだ、という見解である。この見方に立てば、政権選択の決定過程に参加できる限りは、人びとがまだ確定していない内容の決定を受け入れる準備ができているという意味で、選挙の結果は「正当」である。
だが私は、この見解に説得力を見いだせない。ここは政治理論研究の中心的な論争に参加する場でないのは明らかだが、私はハンス・ケルゼンが指摘するように、「どの個人も他人よりも重視されることがないという純粋な否定の仮定は、多数派の意志が勝つべきだという肯定の原則の推論を許さない」という見解を支持する。
とはいえ、私は、投票は別のメカニズムからルール遵守をもたらすと考えている。投票は「力こぶをつくること」と同じ、つまり、起こりうる戦争の勝率を予測できることに匹敵する。もし、すべての人間が同じ強さ、あるいは同じ程度に武装しているのであれば、投票分布は紛争の結果の近似値である。
もちろん、戦う能力が専門的かつ技術的になり、いったん物理的な力が単なる数の力から乖離すると、もはや投票から暴力をともなう争いの勝率を読むことはできない。しかしながら、投票からは、人びとの持つ情熱や価値観、利益に関する情報が明らかになる。もし選挙が反乱の代わりにおこなわれる平和的な行為であるとするならば、選挙は、誰が何に対して反乱を起こすだろうかを全員に知らせる役割を持つ。
選挙は敗者に対し、「これが力の分布である。選挙の結果が伝える指示に従わなければ、暴力的な対決で私を倒す可能性よりも、私がお前に打ち勝つ可能性のほうが高いだろう」と知らせ、また、勝者には、「次の選挙をおこなわなかったり、過度な収奪をしたりすれば、お前に最大限の抵抗を仕掛けるだろう」と伝えているのだ。
選挙は、現職が圧倒的に有利な立場を享受していても、対立する政治勢力が最終的に暴力的な抵抗をおこなう可能性についてのある程度の情報を提供する。
支配者(個人、政党、派閥)が選挙ではなく力ずくで権力を掌握した体制において、選挙をまったくおこなわない場合には、彼らが力ずくで排除されるまで、その支配は平均20年続くという分析結果がある。支配者が野党を許容しないながらも選挙をおこなっている場合には、25年継続する。また、ある程度競合的な選挙をおこなった場合には、クーデタやその他の暴力的な政権奪取まで46年かかる。
これに対し、選挙で少なくともいちどは平和的な政権交代を経験した場合には、暴力的な政権奪取は87年にいちど起こるだけである。したがって、選挙をおこなうというだけでも暴力的な紛争の頻度を減少させ、それほど競合的ではなくとも野党が存在する選挙では頻度はさらに減少し、実質的に競合的な選挙は、暴力的な紛争の頻度をほぼゼロにする。
選挙は、支配の限界を明らかにすることで政治的暴力を減らすのである。
結局、民主主義の奇跡とは、対立する政治勢力が投票結果に従うということである。銃を持っている人が、持っていない人に従う。現職は、選挙により野党に政権の座を奪われるリスクを負う。敗者は、政権を獲得するチャンスを待つ。紛争は規制され、ルールに従って処理されるため、限定的になる。これは合意とはいえないが、暴力的ではない。いわばルールのある紛争、すなわち殺戮のない紛争である。投票用紙とは「紙でできた石つぶて」なのである。
【アダム・プシェヴォスキ『それでも選挙に行く理由』(白水社)所収「第11章 平和的な紛争処理」より】