弘法大師にまつわる伝説をもつ全国各地の『弘法水』 民俗学・地理学・自然科学的視点から伝説を読み解く
記事:朝倉書店
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近年の名水ブームにより、その水資源的価値や水質汚染の観点から、湧水の湧出および水質形成プロセスの解明は非常に重要な課題となっている。その一例として日本地下水学会により環境庁の名水百選に選定された湧水・地下水を中心に 水文科学的研究が進められ、『名水を科学する』3 分冊でその成果を公表している。また、日本水環境学会においても『日本の水環境』シリーズが刊行された。このような状況にあって、水の研究者にとって弘法大師ゆかりの水(以降,弘法水(こうぼうみず))は、極めて興味深い存在である。
弘法水の伝説とは,水に苦労している地域を訪れた弘法大師が人々を不憫に思い、杖(いわゆる金剛杖や錫(しゃく)杖(じょう))で地面を突いたところ水が湧き出た、などの伝説であり、日本各地に数多く存在する。これらの伝説の真偽はともかく、一般的に弘法水は水を大切にせよという古来の戒めを表していると考えてよい。ところが今日では弘法水は単なる伝説として切り捨てられ、その多くが開発の波に晒され、消え去りつつあるのが現状である。しかし、弘法水は日本最高の頭脳とされる弘法大師の伝説の水である。その伝説自体はかなり眉唾的なものがあるものの、地域の人々が弘法水伝説を残してきたその思いは大切にしなければならない。
また、時を経て、1995 年の阪神淡路大震災や2011 年の東日本大震災では、ライフラインを絶たれた人々が水を求めて川床にある小さな湧水や給水車に長蛇の列をつくったことは記憶に新しい。災害時の備えとして、貴重な水資源である弘法水をはじめとした伝説・伝承のある水の文化、水辺の役割や機能に学ぶべきことは極めて多く、非常に有意義であると考える。
弘法水はあくまでも伝説の水であり、柳田(1971)、和歌森(1972)、斎藤(1974;1975;1976;1984)、大森(1994)らの民俗学的、宗教学的な調査研究が代表的なものである。また、考古学の観点からは日色(1964)と山本(1970)による精力的な古井戸の研究の中に、多くの弘法水の事例が挙げられている。地理学からは古江ほか(1992)の研究があり、断片的ではあるが日本地下水学会編(1994;…1999)に数多くの弘法水が紹介され、その水質について述べられている。しかし、弘法水を系統的に扱い、自然科学的な側面から解析した研究例は全く見られない。空海伝説を精力的に研究した白井優子著『空海伝説の形成と高野山』(1986)も宗教学、民俗学的な研究であり、その中で五来(1942)による弘法清水の研究を紹介しているが、これは高野聖による布教活動について述べたものである。なお、海外にもフランスのルルドの泉やドイツのノルデナウの水、メキシコのテラコテの水など伝説の水は多数存在するが、自然科学的考察はあまり見られない。
筆者はこれまで機会あるごとに弘法大師ゆかりの水を調査してきたが、それらを人文・自然科学的視点から見ると、多くの類似点が見つかった。そのいくつかを以下に記す。
①霊水・薬水として利用されているものが多い。
②人里離れた山中にはあまりない。
③地形の変換点や谷頭に多い。
④湧出量が微量。
⑤その多くが大木の根元から湧出している。
⑥弘法水・加持水・金剛水・閼あか伽水などと呼ばれているものが多い。
⑦眼病・皮膚病などに効く水が多い。
⑧ゲルマニウムなどの特殊な成分が溶存しているといわれている。
⑨地元の人々の弘法水に対する意識が高い。
⑩現在かなりの数の弘法水が埋立てされている。
これらの弘法水を採水し水質分析を実施したところ、異常な水質を示す水が少なくないことが明らかとなった(河野,1999)。
これまで弘法水は単なる伝説の水として知られていたが、そこには民俗学的、地理学的、自然科学的に興味深い事実が隠されていた。長い歴史の中で、人々の営みが弘法水という存在に特別な意味を持たせて利用していたと見ることができる。 本書は、プラシーボ効果論が強い弘法水について、自然科学的視点から、湧水・井戸水の湧出量や主要無機溶存成分を中心とする水質の分析などにより、弘法水の水文科学的特徴を検討した。さらに、日本各地に残るこのような弘法水について、その水利用形態や保存状況、伝説内容などについても明らかにする。また弘法水の自然科学的素因と誘因とがいかに融和して、現代に伝えられたかについても検討する。
2021年9月 河野 忠(『弘法水の事典』まえがき より)