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いま改めて考える「アフガン戦争」――『なぜ、イスラームと衝突し続けるのか』を通して

記事:明石書店

内藤正典『なぜ、イスラームと衝突し続けるのか』(明石書店)
内藤正典『なぜ、イスラームと衝突し続けるのか』(明石書店)

 二〇年前、二〇〇一年の九月十一日、アメリカで世界貿易センタービルや国防総省などに民間の旅客機が突入するという同時多発テロ事件が起きました。本書を書いたのはその直後のことでした。

 事件は、オサマ・ビン・ラディンが率いるアル・カーイダという、イスラーム過激派組織による犯行と断定されました。アル・カーイダによるアメリカに対する攻撃は、それ以前からあったからです。

 一九九八年には、タンザニアの首都ダルエッサラームとケニアの首都ナイロビにあるアメリカ大使館が爆弾テロによって、大変な被害を出しましたが、この事件も、オサマ・ビン・ラディンとアル・カーイダによるものとされていました。

 しかし、九・一一はアメリカ本土が直接攻撃され、三千人にも及ぶ犠牲者を出すという前代未聞の攻撃でした。貿易センターの二つのビルが、炎と共に崩れ落ちる映像は、今も生々しく記憶に残っています。テロリストの側は、この衝撃的な映像が世界で共有されることを知っていて、その視覚効果を狙っていました。しかし、テロに対するアメリカの報復もまた、テロリストではない一般のムスリムに多大の犠牲を強いることになったのです。

 この本の最後に、その後二十年で、西欧とイスラーム世界の関係が、どのように変化したかを考えていくことにします。

「テロとの戦い」をめぐる亀裂

 テロ事件の後、アメリカと同盟国は、アフガニスタンに侵攻し、イスラーム組織タリバンの政権を倒しました。彼らがビン・ラディンとアル・カーイダを匿っていたからです。

 直接アメリカ本土が攻撃されるという前代未聞のテロに見舞われたアメリカという国家がテロ組織に報復するのは当然でした。当然だと言っても、それが「正戦」だというのではありません。あの国の性格、歴史のなかで取ってきた行動を考えれば、間違いなくそうするであろうし、事実、そうしたということです。

 NATO(北大西洋条約機構)も、同盟国が攻撃を受けたことを根拠に、アフガニスタンへの攻撃に参加しました。これは、NATO条約に基づく集団的自衛権の行使として初めての軍事行動となりました。その後、日本でも集団的自衛権の行使を可能にする法の改定が行われました。アフガニスタンでの戦争で集団的自衛権を行使したNATOがその後たどった道を見直しておくことは、日本の将来の安全保障を考えるうえでも必要なことだと思います。

 NATO軍には、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダなど、ヨーロッパ諸国も含まれています。つまり、西欧諸国が、こぞってアフガニスタンを攻撃したことになります。

 タリバン政権は、あっという間に崩壊しました。崩壊しましたが、消滅したわけではありませんでした。たとえて言うなら、アメリカと同盟国の圧倒的な軍事力を前にして、兵士は村に帰ってしまったというところです。

 アメリカは、この戦争の途中で、戦争の目的をすり替えました。当初は、「テロとの戦争」を目的としてアル・カーイダを殲滅するためにアフガニスタンに踏み込んだわけですが、タリバン政権を倒してアフガニスタンという国を造り変えるとなると、別の理屈が必要だったのです。

 そこで持ち出したのが、女子教育を認めず、女性の人権も認めないタリバン政権を倒さなければならないという理屈でした。タリバンが厳格なイスラーム法の適用を求めたことが原因でした。アフガン女性が着用するブルカという全身を覆う衣装こそ人権抑圧の象徴だということになり、アメリカの戦争はブルカからの解放の戦いであるかのように喧伝されました。戦争の目的は、いつしかアル・カーイダの掃討から、アフガニスタンを民主化し、自由を与えることにすり替わっていました。「民主化」「自由」「女性の人権」という言葉を持ち出すと、国際社会は反対できません。

 女性を人権抑圧から解放する、子どもの人権を保障するという主張は正当なものですが、そのために、戦争という手段が正当化されるか、というなら、それはあり得ません。戦争で女性や子どもを解放すると言っても、爆弾もミサイルも、女性と子どもを避けて落ちたりはしないからです。

 戦争開始から二十年を経た最後の最後まで、アメリカは、戦争に対して理不尽な正当化をすることによって、罪もない子どもたちを殺しました。カブールが陥落し、アメリカ軍が完全に撤退する前日のことです。「ホラーサーンのイスラーム国(IS―K)」というイスラーム主義のテロ組織を攻撃するとして、市街地をピンポイントで空爆しましたが、これは完全な誤爆で、NGOのスタッフと子どもたち七人を殺害しています。

 アメリカが唱えた「テロとの戦争」はどうなったのでしょう。九・一一の首謀者であったオサマ・ビン・ラディンがアメリカ軍特殊部隊の攻撃によって殺害されたのは、アフガニスタンへの侵攻から十年も経った二〇一一年のことでした。しかも、殺害現場はアフガニスタンではありません。東の隣国パキスタン領内にあったパキスタン軍基地の近くに隠れていたところを急襲したのです。

 アメリカは、ここでアフガニスタンへの介入から手を引くべきであったと私は思います。九・一一への報復なら、ほぼその目的を達したわけですから。しかし、アメリカと同盟国は、「アフガニスタンをテロの温床にしない」を合言葉に、この国を「民主的で自由な」国家に造り変えようとしました。ここに、アメリカと同盟国の大きな間違いがあったのです。

 その後も、決して消滅していなかったタリバンは、アメリカ軍とNATO同盟国軍を侵略者であり占領者とみなして、徹底抗戦を続けました。アメリカに言わせると、これも「テロとの戦争」ということになるのですが、おかしな話でした。

 タリバンはアフガニスタンの地付きの組織です。外国軍が自国を侵略・占領するなら、彼らを追放するために戦うのは当然でした。タリバンが登場するより遥かに前の十九世紀から、この抵抗運動は続いてきました。抵抗する人びとは、ムジャーヒディーンと呼ばれました。ムジャーヒディーンとは、「ジハードの戦士」を意味します。おかしな話ではありませんか。

 タリバンも「ジハードの戦士」ですから、ムジャーヒディーンです。侵攻してきたソ連軍とたたかったのも、ムジャーヒディーンです。ソ連軍との戦い、それは一九七九年から八九年のことでしたが、当時はまだ冷戦の時期だったため、アメリカと同盟国は、「ムジャーヒディーン」を共産主義勢力と戦わせるために利用しました。それが、アメリカと戦い始めると、「ムジャーヒディーン」は「テロリスト」になるのでしょうか?

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