あなたの知らないモルディブ
記事:明石書店
記事:明石書店
青い海にサンゴ礁、白い砂浜。エメラルドグリーンの透き通る海に浮かぶ水上コテージ。高級リゾートの代名詞であるモルディブの空港に到着すると、首都のあるマーレ島がすぐそばに見える。ここはモルディブの全人口の3割以上が住む世界的にも有数の過密都市である。朝早くから夜遅くまで細い路地を人やバイクが行き来し、活気に溢れている。しかし観光客はここに立ち寄ることなく、空港島の港で待つスピードボートや飛行機でそれぞれの目的地であるリゾートへと直接運ばれてゆく。モルディブでは一つのリゾートホテルが一つの島を丸ごと占有していて、観光客はほとんどの時間をホテルのある島で過ごす。リゾートでは、色とりどりの魚が観光客を待ちかまえている。多彩なマリン・アクティビティや、豪華な食事に、観光客はリラックスしながら非日常的な空間や体験を堪能する。帰りもリゾートが用意した船や飛行機で空港に戻り、帰途に就く。
観光客はモルディブを満喫した、と感じるだろう。しかしこの間、観光客の多くはモルディブ人に会っていなかったかもしれない。実は観光産業に従事する労働者の半分以上が外国人だからである。モルディブ・リゾートのリピーターであってもモルディブが敬虔なイスラム教徒の国であることを知らない人もいるかもしれない。他方、観光業は漁業と共にモルディブの経済を支えるものだが、モルディブ人にとってもリゾートは縁遠い場所である。
筆者がモルディブに興味を持つようになったのはスリランカで中国の「債務の罠」が論じられていた時に、モルディブでも中国の存在感が増しているというニュースを目にしたからだ。インド洋の安全保障に対する関心も高まっていた。ところが観光に関しては旅行ガイドブックや個人のブログなどが最新のリゾートやダイビング情報を細かくフォローしているものの、観光以外の政治や経済・社会の基本的情報は極めて限られていた。そこでモルディブを学ぶための研究会を筆者の所属する独立行政法人日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所で立ち上げることにした。本書は、「モルディブの政治・経済・社会」と題して2018年度から2019年度にかけて実施した研究会の成果である。
いざ始めてみるとモルディブに関する日本語の書籍は少なく、英語の書籍も少なかった。南アジアの国々の政治や経済を幅広く扱う本の中の一章としてかろうじて見つけることができた場合もあった。発展途上国・地域を専門とし、70万冊を所蔵するアジア経済研究所図書館ですら、モルディブの棚にある蔵書は20冊に満たない状況であった。だが現地調査などを通じて広く資料収集作業を進めるうちに、知られていなかった文献を掘り起こすことができたほか、インターネット上の情報を見つけることができた。
本書の執筆は、モルディブをフィールドとする研究者、青年海外協力隊や国際協力機構(JICA)や民間団体から派遣されモルディブでさまざまな分野で支援を行った経験のある方々、事業活動などを通じてモルディブと長らく関わりを持ってきた方に広くお願いし、広い分野の貴重な体験や知見を含めることができた。ただし、政治経済などモルディブを専門とする研究者がいない分野についてはアジ研のほかの地域を専門とする研究者の参加を得て研究を行った。
民主化されて間もないモルディブが国内政治面で難しい舵取りを迫られていること、対外的にはインド・中国という大国の狭間で関係を模索していること、一方で、気候変動など地球規模の環境問題の分野でイニシアティブを発揮していることを示すことができた。漁業支援やかつお節を通じた日本との関係は、不思議な縁を感じる。
日本での先行研究が十分でないなかで、モルディブの豊かな歴史、生活・文化、宗教についての考察は十分とはいえないものの、観光だけではない、モルディブの持つさまざまな側面を紹介することができたとひそかに自負している。そして何より本書が読者のみなさんにとって真のモルディブの姿をとらえるきっかけとなるとしたら、この上ない幸いである。
本書は新型コロナウイルス感染症の蔓延がまだモルディブの社会に大きな影響を与えていない時期にとりまとめられたものである。コロナ禍がモルディブの社会にどのような影響を与えているかを明らかにすることは重要な課題ではあるが、基礎的な情報を提供するという本書の目的に鑑みて、大幅な修正を加えなかった。コロナ禍以降のモルディブの変化については今後の課題としたい。