優生学=社会を映し出す鏡 本多創史『近代日本の優生学』
記事:明石書店
記事:明石書店
長谷川如是閑をご存じでしょうか。戦前日本の卓越したジャーナリストで、リベラルな思想の持主として政府や軍部にも物おじせず意見を述べたため、権力にとって危険な人物としてマークされていました。
その彼が、「障害者や犯罪者などは遺伝的要因によるもので、次世代にその遺伝的要因を伝え、同類が増加しないよう、妊娠を防ぐ手術を行ったほうがよい」という考えに触れたとき、どのように応じたと思いますか。
推測はいろいろと可能でしょうが、一つは、そうした人々は普通の人のように社会生活を営むことが難しく、世間から疎まれることも多いから、生まれないよう予め処置するほうがよいとした、ということでしょう。
いま一つは、権力批判も辞さないリベラリストなのだから、それらの人々を一方的に手術の対象に据えることは許されないと考え、むしろ社会の在り方や世間の眼差しのほうを批判した、ということでしょう。21世紀初頭の思想状況を生きている私たちは、後者の推測のほうを支持したくなるかもしれません。
残念ながら、それは正しくありません。如是閑は、前者の考え方に近く、このことに関しては社会の多数派の一員として発言していたからです。1930年代、帝国議会では手術を可能とするための法律を審議しています。最終的には政府案が議会を通過するのですが、それについて彼は、この法の合理性と日本社会に馴染むものであることについて、日本の古典を参照してまで、説いています。
犯罪者等についての彼なりの研究が背景にあったと思われますが、ここで着目すべきは、個人の思想と判断の自由を重んじ、時として政府や政党、軍部や学者などさえ批判した彼が、特定の人の身体にメスを入れる手術については、政府と歩調を揃え、あっさりと承認したということです。
このことをより広い視野から眺めれば、当時、立場や思想の相違を超えて、「異端者」は生まれないようにしたほうがよい、という認識が共有されていたと言えるのではないでしょうか。
詳細は本書を読んでいただくほかないのですが、如是閑を含む社会の多数派は、「異端者」の子づくりを妨げるためにその身体にメスを入れる手術を容認しました。ここで留意したいのは、「異端者」とは誰かを決め、手術をおこなうべきだと決めたのが社会の多数派だったということです。
換言すれば、社会の多数派は、自分たち自身には決してなされることのない手術を、「異端者」に対しては軽々と容認したのです。このことは、多数派が「異端者」とその身体をどのように認識していたのかをくっきりと示すものです。
本書は、上の手術(消極的優生学に立脚した断種手術)が社会に提案され、法律に書き込まれ、実施されていく経緯をたどるものですが、従来の研究とは異なり、社会の多数派が誰を「異端者」として措定し、どのような学問を動員して手術が妥当であるとしたのか、学問によって論証できない事柄が出てきたときどのように推測を積み重ねたのか、などを論じています。
全体としてみれば、20世紀初頭から半ばの近代日本における「異端者」(本書では〈他者〉と表記しています)に対する多数派の認識の一断面を描くものとなっています。
ところで、〈他者〉に断種手術をおこない妊娠そのものを防ぐならば、〈他者〉が生まれることがなくなりますから、社会にとってのみならず近親者や親になる可能性のあった〈他者〉自身にとっても、「よい」ことなのではないでしょうか。様々な意味で負担が無くなるからです。
当時、断種手術が身体に与える影響はほとんどないとされ、したがって、この程度の犠牲であれば仕方がないと考えられたとしても不思議ではありません。そして多くの人々がそう考えていたからこそ、思想や立場の違いを超えて、容認されたのです。
ですが、ここで考えておかなければならないことがあります。それは、通常の手術は本人自身の健康の回復を目的としておこなわれますが、断種手術は本人の健康の回復のために何の役にも立たない、ということです。あくまでも、社会の多数派にとっていないほうがよい存在を予め摘み取るものだからです。
これらのことから、やはり、断種手術の対象に据えるということは、現に生きている〈他者〉の身体を軽く扱ったことを意味する、と言ってよいでしょう。
ここで一気に飛躍してしまって恐縮なのですが、私たち人間は、そもそも、すべての人が同じように配慮される社会を構想することができるのでしょうか。
人間は、直接的な物理的世界にではなく、コトバを介した意味の世界に生きています。くだいて言うなら、人間はあらゆるものを意味あるものと意味のないものとに分けながら生きるほかない存在です。そうした人間から成る社会において、個人をその属性を基に、意味のあるものとないものとに分けることになったとしてもさほど不思議なことではありません。そうだとすれば、社会が成立し、そこに何らかの画一的な基準がある限り、いないほうがよい人は常に作り出されることになるでしょう。
本書を執筆していたとき、私の念頭から離れなかったのは、この重苦しい問いでした。そして私はいま、こうした意味で、そもそも社会とは何かを考察する必要がある、と考えるに至りました。こうした問いは技術的に回答できるようなものではありませんし、その意味でまさしく、人文・社会科学を措いて他に引き受け手のない課題だと思います。