男女の逃れられない関係をとおして倫理の境界をまたぐ作家の吉田修一さんが、新刊『湖の女たち』(新潮社)で「優生思想」と向き合った。作中には神奈川県の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた事件や、与党議員の性的少数者に対する「生産性」発言も顔を出す。時代と切り結ぶ長編は、どのようにして生まれたのか。
滋賀県の琵琶湖に近い介護療養施設で、人工呼吸器をつけた100歳の入居者が心肺停止の状態でみつかった。スタッフによる医療ミスか、それとも呼吸器の故障か――。刑事の圭介は、容疑者の一人として介護士の佳代と出会い、2人はSMめいた支配/被支配の関係に陥っていく。
着想のきっかけは、滋賀県の病院であった元看護助手の女性をめぐる冤罪(えんざい)事件だった。これまでも現実の事件に材を取ることは多かったが、「社会で起きたことに問題意識を持って書くタイプに見えそうで、じつはそうではなくて。男女の出会いとか、どこにでもあるような小さな話が書きたいだけなんです」。取り巻く社会は、「2人を表現するために必要な背景。それに尽きます」。本作でも、事件は背景の一部だ。
だが、小説を「週刊新潮」の連載に向けて執筆中に、月刊誌「新潮45」でLGBTのカップルを「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」と書いた与党議員の寄稿が問題となった。物語が「優生思想」をテーマにしつつあったときだ。
「この小説はこういうテーマでいくんだ、というときに、近くでまったく同じようなことが起きた。自分が書こうとしていることは、このまま突き進んでいいんだなと思えた」。さらに書き終えた後になって、京都市で難病「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)の女性患者をめぐる嘱託殺人事件が明るみに出た。
小説は刑事と容疑者にくわえ、事件に興味を持つ週刊誌記者の視点でもつづられる。彼が取材の末にたどり着くのは、旧満州のハルビン。日本軍の「七三一部隊」が人間を丸太と呼んで生体実験を繰り返していた場所だ。
歴史の暗部が、現代でも「生産性」発言や「やまゆり園」事件の加害者らによって見え隠れする。「(加害者たちは)もう、いると思っているんですよ。人を殺す人がいるのと同じで、いなくなることはない」。それは過去が証明もしている。ただ、「ああいう事件が起きて、それに共感する人たちがこんなにいるんだというところに自分でも衝撃があった」と話す。
何事にも効率や生産性を求めてきた文明が、背負うべくして背負った原罪なのか。「少なくとも、この主人公たち、圭介と佳代は一切、生産性のないことを一生懸命やっている。人間はこの情熱、といっていいかわからないけれど、これを必要とするのか不必要とするのか。それが答えなんじゃないかなと自分では思うんですけどね」(山崎聡)=朝日新聞2020年12月23日掲載