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哲学研究者が、自身の被害経験を丸ごと描く『当事者は噓をつく』

記事:筑摩書房

「私の話を信じてほしい」哲学研究者が、自身の被害経験を丸ごと描く
「私の話を信じてほしい」哲学研究者が、自身の被害経験を丸ごと描く

 私が修復的司法の研究を始めたことは、自分の被害経験と深く繫がっている。私は被害者だから加害者との対話に興味を持った。

 その、とても自然で当たり前のことが、私には言えなかった。

「加害者と対話することを望む被害者」

 私は、そのようなラベルを貼り付けられることに耐えられなかった。なぜならば、私のサバイバルの経験と修復的司法との研究の繫がりは、そんな単純なものではないからだ。

 私の研究の背景には長い長い物語がある。それを語るためには、長い時間をかけてエネルギーを貯めることが必要だった。

 代わりに、これまで私は研究に至った経緯をこんなテンプレートで語ってきた。

「私は性暴力被害者の支援活動に参加していました。私は心理職ではないので専門的な支援はできませんでしたが、サバイバーとの出会いが私の研究の出発点です」

 もう何十回も私は自分について、このように説明してきた。迷うこともなくスラスラと口から出てくるし、他の人たちに不審に思われることもない。

 この語りは噓ではない。最も重要な「私は当事者である」という事実を伏せていること以外は。

私は本当のことを語ろうと思った

 だけど、私はずっと思ってきた。

「私は噓をついている」

 私の研究の情熱の源は、自分自身の経験にあった。私は回復した被害者ではなかった。痛む古傷を抱えながら生きているサバイバーだった。

 私は、被害者の声を聴くときに、観察者に徹したことがなかった。かれらの痛みに触れたとき、体の奥底が震え、私の心は共鳴した。文献資料を読みながら、フラッシュバックを起こし、泣きながらページをめくった。

 私がどんなに失敗しても、批判されても、意志を曲げずに修復的司法の研究を続けられたのは、自分のことで頭がいっぱいで、他人の声がほとんど耳に入っていなかったからだ。被害者としてのたうち回って苦しんだ、脆弱でかわいそうで惨めな過去が、私の原体験としてこの体に焼き付いていた。

 ずっと、それは言えなかった。研究者の語りとしてふさわしいと思えなかったからだ。私は「当事者」ではなくただの「研究者」になろうとした。

 だけど、そろそろ私は本当のことを語ろうと思った。ひとつの理由として、年を重ねて、もっと若い世代を気にかけるようになったことがある。

 これまで、私は自分の物語はあまりにも個人的で特殊で、他人に語るに値しないと考えていた。ところが、このごろはまわりを見回すと、暴力や災害の被害経験の有無にかかわらず、若い人たちも痛みやマイノリティ性を抱えて研究の世界に飛び込んでくる。大学の研究者でなくても、声を潜めて当事者性を隠しながら社会でなんとか生き延びようとしている若い人たちもいる。私の物語は、もしかすると、若い人たちが今後の自分の人生を考えるための材料になるかもしれない。

 もうひとつの理由としては、性暴力のような強烈な経験ではなくても、人は生きていくなかでなんらかの痛みやマイノリティ性を帯びるということに気づいたことがある。私の物語は、「性暴力被害者」という特殊なポジションから語ることになるが、似たような経験をした人たちはそれなりにいるだろう。私が生き延びるプロセスで見た風景は、読者のあなたがどこかで見た風景と重なるかもしれない。

 それは、性暴力被害者ではない人が、同情や憐れみ以外の方法で、当事者について理解を深める手段になりえる。私が自分の経験を語ることは、他人の役に立つかもしれないのだ。

 長い時間をかけて、私の被害経験は遠いものになりつつある。サバイバーのアイデンティティは今も変わらずあるが、だんだんとその濃度はさがっていく。自分の被害経験を思い出すことも少なくなった。まだ傷跡は生々しいが、他人に見せられる状態にして提示することはできそうだ。ちょうどいいタイミングだろう。

本当のことを語ろうとしても、私は噓をつくことから逃れられない

 しかし、そこで私は立ち止まってしまった。

「どうやって本当のことを語ればいいのだろうか」

 被害から二〇年以上が経っている。記憶違いや、自分に都合のいい記憶の改変が起きている可能性は十分にある。また、人生のすべてをそのまま語ることは現実的には不可能なので、私はどの記憶を語り、どの記憶を語らないのかを選んでいかなくてはならない。

 過去そのものではなく、私の手によって編集した一部の物語しか、私には提示できない。そのうえ、私はどんなに真摯に本当のことを語ろうとしても「自分は噓をついているのではないか」という強迫観念を追い払えない。

「私は性暴力被害に遭いました」

 そう告白したとしても、私はいまだに噓をついているのではないかという、自己懐疑に囚われる。語っても、語っても、「あれは語らなかった」「これは違うかもしれない」「こんな言葉では表現できていない」という声が、自分の中から湧き上がる。他人から疑われることもつらいが、自責や自己批判も孤独で苦しいものだ。

 たとえ、本当のことを語ろうとしても、私は噓をつくことから逃れられない。そう私は感じている。私はこのポイントを、この本のスタート地点にしたい。

『当事者は嘘をつく』(筑摩書房)書影
『当事者は嘘をつく』(筑摩書房)書影

 この本の目的は、性暴力の被害を告発することでも、被害者の苦しみを訴えることでもない。過去の強烈な経験を引きずりながら生き延びるなかで私が見た風景を描くことだ。

 この物語は真実だが、私は常に「噓をついている」と思いながら語っている。あなたが、私の言葉を疑う以上に、私は自分の言葉を疑っている。だからこそ、私はあなたに最後まで聞いてほしい。真実を明らかにするためにではなく、私の生きている世界を共有するために。

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