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「ロシア帝国300年間」の栄枯盛衰と人間模様

記事:白水社

愛憎相半ばする一族、戦争と革命、陰謀と謀反、弾圧と殺害、性愛と嗜虐……王朝の絢爛たる歴史絵巻と血にまみれた「秘史」を、英国の歴史家が赤裸々に物語る。サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ著、染谷徹訳『ロマノフ朝史1613-1918』上下巻(白水社刊)【カラー口絵16頁・地図・家系図・人物紹介・人名索引を収録】上巻の装画はピョートル大帝、下巻の装画はニコライ2世。
愛憎相半ばする一族、戦争と革命、陰謀と謀反、弾圧と殺害、性愛と嗜虐……王朝の絢爛たる歴史絵巻と血にまみれた「秘史」を、英国の歴史家が赤裸々に物語る。サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ著、染谷徹訳『ロマノフ朝史1613-1918』上下巻(白水社刊)【カラー口絵16頁・地図・家系図・人物紹介・人名索引を収録】上巻の装画はピョートル大帝、下巻の装画はニコライ2世。


【著者による原書紹介:Simon Sebag Montefiore introduces The Romanovs】

 

 ロシアで皇帝(ツァーリ)となり、その職務を務めることは決して容易な仕事ではなかった。ロシアはきわめて統治困難な国家だからである。

 ロマノフ朝は1613年に成立し、1917年のロシア革命で終焉を迎えるが、その304年間に歴代20人の皇帝がロシア帝国を支配した。ただし、ロマノフ朝の源流は1613年よりもかなり前のイワン4世(雷帝)の時代まで遡る。終焉を迎えたのはラスプーチンの時代だった。

 帝政末期の時代をロマンチックな悲劇として描こうとする歴史家たちは、ロマノフ朝が呪われた存在だったことを強調する傾向がある。

 しかし、実際には、ロマノフ朝はモンゴル帝国以降、世界で最も目覚ましい成功を達成した王朝だった。

 1613年にロマノフ朝が成立して以来、ロシア帝国は1日につき55平方マイル(142平方キロメートル)の速度で領土の拡大を続けた。年間にすれば、実に2万平方マイル(5万平方キロメートル)の割合で拡大したことになる。

 19世紀末、ロシア帝国は地球の陸地面積の6分の1を支配下に収めたが、そこで止まらず、さらに版図の拡大を続ける勢いを示していた。帝国領土の拡大はロマノフ朝にとっていわば血の伝統だったのである。

サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『ロマノフ朝史 1613-1918』上(白水社刊)目次より[上巻はピョートル大帝からエカチェリーナ大帝、ナポレオン戦争まで。カラー口絵16頁・地図・家系図・人物紹介収録]
サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『ロマノフ朝史 1613-1918』上(白水社刊)目次より[上巻はピョートル大帝からエカチェリーナ大帝、ナポレオン戦争まで。カラー口絵16頁・地図・家系図・人物紹介収録]

 本書は、ある意味で人間性の研究であり、絶対的な権力を手にした人間の人格がその権力によっていかに変容するかを見究めようとする試みである。その試みの過程で、家族の情愛、結婚、姦通、親子関係など、数々の物語が展開される。

 しかし、それらの物語は普通一般の家族の物語とは明らかに趣を異にしている。なぜなら、帝政の特徴である絶対的権力は、皇帝の家族関係に甘美な陶酔をもたらすだけでなく、破滅的な毒をも吹き込むからである。

 権力にともなう魅惑と腐敗が血縁の紐帯や情愛を破壊することも稀ではなかった。本書は歴代の専制君主とその親族および君主を取り巻く廷臣たちの群像の歴史であると同時に、ロシアの絶対主義制度の全容を描き出すための王朝の肖像画でもある。

 ロシアに対する見方が何であれ、ロシアの文化、ロシアの精神、ロシアの本質が世界に例のない特異なものであることは否定できない。そして、その特異さは、皇帝の家族のあり方そのものにも集約されている。

 ロマノフ家は偉大な王朝であるだけでなく、絶対的専制支配の象徴であり、その歴史は絶対的権力につきまとう愚昧と傲慢の物語集に他ならない。

 君主と臣民の関係および国民の文化に関して言えば、ロマノフ王朝に比肩し得るのはローマ帝国のカエサル王朝のみであり、両王朝は、昔と今の違いこそあれ、ある個人が絶対的権力を掌握した場合に発生する事態をきわめて分かりやすく示す点で酷似している。

 「皇帝」を意味する言葉として、ロマノフ朝の歴代皇帝がラテン語由来のロシア語である「インペラートル」ではなく、「カエサル」に由来する「ツァーリ」を名乗ったことは偶然ではない。

[中略]

サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『ロマノフ朝史 1613-1918』下(白水社刊)目次より[下巻はクリミア戦争から、日露戦争、第一次大戦、ロシア革命まで。カラー口絵16頁・地図・家系図・人物紹介・人名索引収録]
サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『ロマノフ朝史 1613-1918』下(白水社刊)目次より[下巻はクリミア戦争から、日露戦争、第一次大戦、ロシア革命まで。カラー口絵16頁・地図・家系図・人物紹介・人名索引収録]

 専制政治が順調に機能するかどうかを決定する要因は、主として専制君主の個人的な資質にあった。

 カール・マルクスによれば、「貴族制度を維持する秘訣は動物学にある」。つまり、交配を重ねて血統を維持改良する必要があったという意味である。

 17世紀にロマノフ家が採用した方法は花嫁選考会の開催だった。一種のビューティー・コンテストを開催し、后妃に相応しいロシア人の処女を選んだのである。しかし、19世に入ると、花嫁選択の範囲はヨーロッパ各国の王家王族にまで拡大し、特にゲルマン諸公国の王女との縁組が主流となる。ロシアの帝室がヨーロッパ諸国の王族の婚姻ネットワークへの加入を果たしたのである。しかし、有能な政治家を育てることは后妃選びとはまた別の話だった。あらゆる家族から卓越した指導者たり得る専制君主が生まれるわけではない。

 偶然の縁組や宮廷の陰謀劇を繰り返しつつ20代にわたって存続したロマノフ王朝も、常に有能な皇帝を生み出したわけではなかった。政治家になることをみずから志した人間であっても、職責の重圧に耐えて自他の期待を十分に満たし得る場合はむしろ稀である。ましてや、専制君主の職責は極度に複雑で不確定的だった。それでも、すべてのツァーリは独裁的な政治指導者であると同時に最高の軍事指導者と宗教指導者でなければならず、「国民の父親」の役割も兼ねる必要があった。

 これらすべての資質を獲得するためには、社会学者のマックス・ウェーバーが言うところの「人間的な魅力」、「法的な正統性」、「永続的な権威」のすべてが必要だった。言い換えれば、人を惹きつける磁力を持ち、血統上の正統性を備え、伝統の継承者であることが要求された。それに加えて、有能かつ賢明でなければならなかった。人々から恐れられ、敬われる君主であることが必須の条件だった。政治の世界で軽侮の対象になることは軍事的敗北に劣らず危険だった。

サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『ロマノフ朝史 1613-1918』上(白水社刊)口絵より
サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『ロマノフ朝史 1613-1918』上(白水社刊)口絵より

 ロマノフ朝は大帝の称号で呼ばれる2人の天才的な政治指導者を生み出した。ピョートル1世とエカチェリーナ2世である。

 この2人の他にも、人を惹きつける強力な磁力を備えた有能な皇帝は何人も存在した。1801年にはパーヴェル帝が惨殺されるという事態が発生するが、それ以降の歴代皇帝は、ほぼ全員が真面目で、勤勉だった。カリスマ性を備えた有能で知性的な皇帝もいた。しかし、普通の人間にとって、皇帝の役割を果たすことはあまりにも重い負担だった。好んで帝位に就こうとする者はいなかった。皇帝であることは楽しい仕事ではなくなっていたのである。

 「ただ一人の人間がロシアを統治して、ロシアの進路を正しく保つことは不可能だ」と、後にアレクサンドル1世は漏らしている。「私のような凡俗にとってだけでなく、天才的な皇帝にとっても不可能だろう」。アレクサンドル1世は、隠遁してライン河畔の農場で暮らすことを夢見ていたが、その後継者たちの多くも、皇帝の地位の重さに怖気づき、できることならその地位から逃れたいと思っていた。しかし、いったん帝位を継承した以上、命を保つためにも戦わねばならなかったのである。

 ピョートル大帝もよく理解していたと思われることだが、ロシアの専制政治を維持するには、人々を絶え間なく監視し、恐怖させておく制度が必要だった。

 明確なルールもなく、一定の限界もないまま、個人の独裁によってこの巨大な国を統治する制度にはあまりにも大きな危険がともなっていたので(現在もその事情は変わらないが)、ロシアの支配者たちが常に猜疑心に囚われ、被害妄想に陥っていたとしても、その傾向をいたずらに批判することはできない。

 極度の警戒心に苛まれ、時として突飛な暴力に訴えるという心理状態はロシアを支配する独裁者にとってごく自然な態度であり、不可欠な条件でさえあった。

 「多くの君主の不幸は、自分を暗殺する陰謀があることを他の誰かに訴えても、実際に暗殺されてしまうまでは、誰もその訴えを信用しないことにある」という気の利いた警句を発したのは、自分自身が暗殺される直前のローマ皇帝ドミティアヌスだったが、ロシア皇帝の多くも同様の不安を抱えていた。しかし、恐怖政治だけでは必ずしも十分ではなかった。スターリンは、数百万人を殺害した後になっても、なお、誰ひとり自分に従おうとしないという不満を漏らしている。

 最高の知性を備えていたエカチェリーナ2世は、「独裁政治は人々が思っているほど容易な仕事ではない」と指摘している。

 「無制限の権力」はキマイラのような怪物だった。

[中略]

サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『ロマノフ朝史 1613-1918』上(白水社刊)口絵より
サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『ロマノフ朝史 1613-1918』上(白水社刊)口絵より

 20世紀の初頭、最後の皇帝ニコライ2世は迫りくる革命と世界戦争という難局に直面していた。それは、たとえピョートル大帝でも、また、エカチェリーナ大帝でも容易には乗り切れないような難局だった。

 しかし、ロマノフ朝最大のこの危機に際して、皇帝の座にあったのが歴代皇帝のうち最も能力が低く、最も狭量なニコライ2世だったことは不運としか言いようのない事態だった。ニコライ2世は人を見る眼に欠け、しかも、他人に仕事を任せることを嫌った。自分自身が専制君主の役割を十分に果たすことができなかっただけでなく、別の人間がその役割を果たすことを阻止しようとして権力を行使したのである。

サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『ロマノフ朝史 1613-1918』下(白水社刊)口絵より
サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『ロマノフ朝史 1613-1918』下(白水社刊)口絵より

 旧時代的な統治のやり方が1850年代までなんとか順調に機能していたことがロシア政治の根本的な改革を一層困難にしていた。ソ連時代の過激で残忍な社会文化を理解するには、マルクス=レーニン=スターリン主義のイデオロギーを知る必要がある。それと同じように、なぜロマノフ朝がその末期にあのようにしばしば奇怪で、滑稽で、自己破滅的な軌跡をたどったかを理解するには、独裁こそが神聖であるという当時のイデオロギーを知らねばならない。

 自己目的化されたこのイデオロギーが最終的には君主制を歪め、近代的国家への移行を妨害する障害となったのである。生じていたのはほとんど打開不能な難局だった。

 貴族階級と宗教勢力という時代遅れの柱を維持しつつ、その一方で有能な政治家を糾合し、国民の政治参加を拡大しなければならなかった。トロツキーが「イコンとゴキブリの世界」と呼んだ状況が生じていたのである。

 ロマノフ朝が終焉した後の1920年代と30年代の大独裁時代とその後21世紀に入ってからの新独裁体制を見れば、国家の近代化と独裁政治は、結局のところ、決して両立不可能ではないことが分かる。インターネットと24時間ニュースの時代である現代社会においてさえ、同様の現象が見られるのである。

 だとすれば、ロマノフ朝の独裁を機能不全に追い込んだ原因は、時の皇帝と当時のロシア社会の独特な性格にあったと考えざるをえない。瓦解を食い止める解決策があったとしても、それは今になって後知恵で考えるほど単純ではなかったであろう。少なくとも、西欧の独り善がりの論理による批判には無理がある。

 改革の皇帝だったアレクサンドル2世は、「善を為して呪われること、それが国王の運命である」というマルクス・アウレリウスの言葉を引用して慨嘆している。

 西側の歴史家たちの中には、ロシア帝国の最後の2人の皇帝が政治制度の民主化に即座に踏み切らなかったことを批判する意見もある。しかし、民主主義の導入という解決策は妄想にすぎなかった可能性が高い。その種の急激な外科手術は患者の死期を早めるという逆効果を生むだけだっただろう。

【サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『ロマノフ朝史 1613-1918』上下(白水社刊)「序言」より抜粋】

 

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