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「テロと戦争」の時代、フランス革命は終わらない[後篇]

記事:白水社

世界的権威が描く、空前絶後の全史! ピーター・マクフィー著『フランス革命史 自由か死か』(白水社刊)は、革命史研究をすべてカバーした決定版。世界史の転換点を生きた一人ひとりの決断に寄り添いながら、グローバル・ヒストリーを活写。
世界的権威が描く、空前絶後の全史! ピーター・マクフィー著『フランス革命史 自由か死か』(白水社刊)は、革命史研究をすべてカバーした決定版。世界史の転換点を生きた一人ひとりの決断に寄り添いながら、グローバル・ヒストリーを活写。

[前篇はこちら]

 

【著者動画:The French Revolution MOOC】

 

 革命がもたらした変革は持ち堪えた。なぜならそれらは1789年の陳情書に表明されたブルジョワジーと農民の最も深刻な不満のいくつかに応えたものだったからである。すなわち人民主権、市民的平等、「才能」に開かれた出世の道、そして領主制の廃止である。だが1790年7月14日にバスティーユ占拠の最初の記念日をあれほどの熱意と楽観主義でもって言祝いだ人々は、こうした変革を確固としたものにするための最終的な代償が何年もの内戦と外国による侵攻、大量の人命喪失と個人の置かれた不安な状態になるとは、知る由もなかった。1790年に自分たちは人類の進歩の最前線にいると彼らは自信を持っていたが、彼らが約束した進歩はあれほど論議を呼ぶと同時に刺激的でもあったため、革命の帰結は世界中でも当のフランスにおいても繰り返し語られ続けた。

 フランス革命が起きたのはグローバルな帝国的支配をめぐる危機の最中のことだった。この危機は領土や商業的利益、さらにそれらを守るために必要な軍事力をめぐる諸大国──とりわけイギリスやフランス、スペイン、さらにオスマン帝国とムガル帝国も──の衝突だった。広大な北米の支配領域を防衛するのに必要な戦争の費用は、1756年以降のフランス王政にとっては高くつきすぎるということが判明した。そして1778年以降、イギリスの北米植民地人の側に立って介入する誘惑は抗うには大きすぎるものだったが、その成功は巨額の財政負担を伴っていた。ルイ16世とその政府にとって介入の政治的影響は非常に厄介なものであると判明することになる。

1789年7月14日のバスティーユ襲撃。ジャン=バティスト・ラルマン画。
1789年7月14日のバスティーユ襲撃。ジャン=バティスト・ラルマン画。

 フランスは世界的危機の震源地であった。フランスの急進的な革命の衝撃波はヨーロッパ中に、さらにヨーロッパを越えて伝わった。それは大西洋を横切り南北アメリカ、とりわけカリブ海にまで反響し、地中海沿岸に沿って南アジアや南アフリカ、南太平洋にまで届いた。他のヨーロッパ諸国──オーストリアやプロイセンからイギリスやスペインまで──は自分たちの社会や国際秩序を脅かす大変動と思われたものに対して大変な反感を抱き、それらを粉砕するための軍事同盟を設立する用意ができていた。結局のところ彼らの同盟は1815年に革命前のフランスの家族を玉座に戻すことに成功したが、そうした成功は人命喪失という多大な代償を払っており、革命がもたらした主要な変革との和解の後にようやく得られたものだった。

ジャック=ルイ・ダヴィッド『マラーの死』
ジャック=ルイ・ダヴィッド『マラーの死』

 フランス革命は世界史における──あるいは〔ヘーゲルの表現を借りれば〕「世界史的」──転換点だった。そしてその起源や帰結はグローバルであると同時に「国内的インターナル」であると理解される必要がある。近代ナショナリズムとナショナリズムの戦争が誕生した危険な磁場として、革命は啓蒙のコスモポリタニズムの夢を終わらせた。そうした夢は国家間の戦争と1795年以降の「姉妹共和国」の設立、そしてフランスの自然国境をライン河口にまで拡張しようとの呼び声によって消し去られた。革命を擁護する軍事的レトリックと革命的変革という普遍的使命との間には、常に気がかりな緊張関係があった。それは草の根レベルにおいてもそうだった。以前はフォントネ=ル=コントであったフォントネ=ル=プープルの小さな町が、1793年にヴァンデの反乱勢力から奪還された際、「自由、平等さもなくば死」と題された小冊子は、以下に始まるフランス革命の10の掟を掲げていた。

 1 フランス人たちよ、自由の中で生きることができるように自分の祖国を守りなさい。
 2 あらゆる専制君主たちをヒンドゥスタンの反対側へ追い払いなさい。

こうした脅威に応じる中で、革命の最も重要な諸帰結の1つは、1792年以降のヨーロッパの敵対的な反応であり、それにより急進主義への猜疑心が政府と宗教の既存の形態への支持の強化に結びついたのだった。

 革命の勃発は大陸全体で自由主義的な改革の前兆として歓迎されていた。フランスに対するヨーロッパの態度は、戦争や共和国宣言、ルイ16世の処刑のせいで1792年以降に劇的に変化した。1805年、ウィリアム・ワーズワースは『序曲』の中で1789年の19歳の頃にどう感じたかを次のように思い起こした。

あの歴史の黎明期に生まれたということは、幸運だったが、
その時にあたって、しかも年若かったのは、実に願ってもないことだった。
おお、あの時代こそ、慣習や法律や法令などという、無味乾燥な
かびの生えて、ぞっと身の毛もよだつものまでが、実に突如として
空想の物語に出てくるどこかの国のような魅力を持ってしまったのだ!
あの時代こそ、理性が最もその権利を主張し……
単に特定の恵まれた国ばかりでなく、全世界が、
希望の美しさに輝いていたのだ……

しかしながら1805年には、ワーズワースは1793年以降に目にした基本的諸原理からの逸脱と思われる事柄ゆえに、フランスとフランス革命に対する賛同を取り下げてすでに久しかった。イングランドにおける革命に敵対的な政治環境のために、詩──いまや彼の最高傑作と見られていた──の改訂版の出版は1850年の彼の死去まで遅れることになった。イギリスやその他の場所では1792年以降、民主派への弾圧が広がっていた。そしてフランスの革命家たちを血に飢えた独裁者や残忍な暴徒として描く戦争プロパガンダが引き起こされた。才気溢れる若い作家たちの一群──サミュエル・テイラー・コールリッジ、ヘレン・マリア・ウィリアムズ、ウィリアム・ゴドウィン、ウィリアム・ドラナンそしてワーズワース自身を含む──は、首相ウィリアム・ピットによる「有事の治世」という状況において、出世の道を挫かれるか、重大な政治的妥協を余儀なくされた。

1798年のウィリアム・ワーズワース(ウィリアム・シューター作)
1798年のウィリアム・ワーズワース(ウィリアム・シューター作)

 イギリスとフランスが探査や測量をおこない、領域を占拠していたことから、南太平洋においてさえ革命の反響が見られた。1788年以来消息を絶っていた探検家ラ・ペルーズを探しに1791年、ブリュニー・ダントルキャストーの探検隊がオーストラリアに派遣された。リーダーが亡くなり栄養不良で疲弊した探検隊は1793年10月、ジャワにたどり着いたが、そこで同年の初めに起きた出来事について知ったのだった。探検隊の新たなリーダーで王党派のアレクサンドル・ドリボーと、博物学者であり、1760年代にはいまやパリの著名なアンラジェ、ジャック・エベールのアランソンでの同級生だったジャック・ラビラルディエールとの間で、まもなく暴力沙汰の対立が発生した。1793年の同じ頃、スコットランドの改革派リーダーたちは政治犯としてオーストラリアのボタニー湾へ向かう途上だった。

 革命の先例が1789年以前にあったように──最も著名なのが北米、コルシカ、ジュネーヴそして連合諸州(ネーデルラント)の例──、フランス革命は大陸全体で革命家たちを鼓舞した。ポーランドでは1793年の分割(ロシア、プロイセン、オーストリア間)の後、1794年にナショナリストの反乱がアンドレ・コシューシコの指導下で一時的に成功した。1798年にイギリスに対抗したユナイテッド・アイリッシュメンの反乱がそうであったように、それは容赦なく鎮圧された。地中海沿岸や南アジアのいくつかの地域では、フランス革命のニュースは重く受け止められたが、その受容は様々に異なるものだった。それは自由や平等、友愛のための革命として、ラテンアメリカにおける国家の独立を目指ざした闘争の指導者、シモン・ボリヴァル(彼は1804年のナポレオンの戴冠式に出席していた)や、1830年代の早い時期のインドのナショナリストの1人、ラム・モハン・ロイのように多様な人々に刺激を与えることになる。

革命期のパリ
革命期のパリ

 フランス革命の影響の全体はこうした国際的な、さらにグローバルな観点において最もよく理解される。すなわちヨーロッパとその植民地における自決や代議制政府、社会的身分の確固としたヒエラルキーや社団的特権、独裁に対する個人の自由のための闘争の長い歴史という観点である。だがそれは唯一無二なものでもあった。フランスにおいてのみ、革命の最も完全な結果がもたらされた。人民主権、法の前の平等、領主制と奴隷制の廃止、そして相続の平等である。その他の改革は実施されてから拒絶された。すなわち男子普通選挙、教会と国家の分離、とりわけ離婚の権利である。フランスにおいてのみ、民主的共和国はそれを破壊しようとするヨーロッパの同盟を打ち負かすために、その諸力を結集することができた。こうしたわけで、この「諸革命の時代」は同時代の人々にとっては、第一に何よりもフランス革命の時代なのである。

 1989年のパリでの革命200周年の祝典は、北京での学生の抵抗運動の鎮圧とソビエト連邦の崩壊に続いて執りおこなわれた。右派のコメンテーターはフランス革命は「終わった」のであり、公的生活において、あるいは歴史家の間でさえ、もはや重要性を持たないと性急に断言した。彼らは間違っていた。確かに1989年以来の革命的変革の2つの大きな波──東欧や南東欧での体制転覆、そして「アラブの春」──は、2世紀以上前に起きた世界を変えるような激動に対するわれわれの関心を蘇らせた。革命の学問研究に劣らず革命に対する公の関心は、依然として革命を今なお問いかけてくる諸問題の時代であると認めている。いかにして1789年の輝きに満ちた期待が1793年には内戦と恐怖政治に陥ってしまったのか? なぜ選挙に基づく立憲的体制を創出しようとする試みは1799年には強者の支配に取って替えられてしまったのか? テロリズムと「テロとの戦争」の時代に、1789年の意義は公的生活を下支えする諸原理の印として役立ち続けている。たとえば、2015年1月に起きた諷刺を好む週刊紙『シャルリー・エブド』で働く12名のジャーナリストたちの殺害への反応に注目しよう。この時、推定370万人がフランス革命にまで遡るとみなされた諸自由の擁護のためにフランス中を練り歩いたのだった。

Liberté, égalité, fraternité[original photo: Unclesam – stock.adobe.com]
Liberté, égalité, fraternité[original photo: Unclesam – stock.adobe.com]

 225年以上経た後で、フランス革命によって提起され究明された根本的な諸問題は、あらゆる場所で民主的な政治生活すべての核心にあり続けている。平等の探求は自由を損なうものなのか、あるいは社会的平等という基準は真の自由の前提条件なのか? 健全な社会は公共善とみなすものを求めて行動する介入主義的な政府によって最もよく創り出されるものなのか、それとも人々の企業家としての強い衝動を解き放つことによるのだろうか? フランス革命は決して「終わらない」。それが達成したものやその勝利──その失望や残忍さと同様に──の規模こそが、その重要性を唯一無二なものとした。1789年以後、その残響は全世界中に伝わった──そして今なおわれわれとともにある。

 

【『フランス革命史 自由か死か』(白水社)所収「第17章 フランス革命の意義」より】

 

ピーター・マクフィー『フランス革命史 自由か死か』(白水社)目次
ピーター・マクフィー『フランス革命史 自由か死か』(白水社)目次

 

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