誰よりも早く新国家構想を掲げながら、明治維新前に非業の死を遂げた知られざる兵学者の生涯
記事:平凡社
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長野県上田市というと、戦国武将の真田家のイメージが強い町である。徳川家康を向こうに回して善戦した上田城をめぐる攻防戦は、良く知られているだろう。
しかし、真田家が上田城主だった時代は割合短かった。上田藩真田家の歴史は40年ほどに過ぎない。元和8年(1622)には信濃松代へ転封となったからだ。代わりに上田城に入ったのは小諸城主の仙石家だが、上田藩仙石家の歴史も80年ほどで終わり、宝永3年(1706)に但馬出石藩の松平家が移ってくる。明治の廃藩置県まで上田藩松平家の歴史が160年ほど続いたのであり、江戸時代の過半は、幕府の老中も出した譜代大名の松平家が上田城の主であった。
本書の主人公赤松小三郎はそんな上田藩の下級藩士芦田家の次男として、天保2年(1831)に上田城下で生まれた。のちに家中の赤松家に養子に入ったことで、赤松姓となる。
上田藩に限らず、藩は総じて藩士の子弟教育に力を入れた。藩校を建設して子弟を学ばせることで、主君に忠誠を誓う有能な家臣を育てようとする意図があった。
上田藩が城下に藩校を創設したのは文化10年(1813)のことだが、文学校と武学校から成っていたため、「文武学校」と称された。文武両道を目指す意味が込められた校名であり、文学校の方は明倫堂とも呼ばれた。
天保13年(1842)から、小三郎は実父が教官を勤める文武学校に通いはじめる。並行して、叔父で和算家(数学者)の植村重遠の塾にも通った。学問を修めることで立身し、上田藩では底辺に位置した境遇から脱したい強い意思が、その裏には秘められていた。
学問好きで成績優秀だった小三郎に寄せる上田藩の期待は大きかった。18歳の時に江戸での勉学を許された小三郎は数学に加え、測量・天文・暦学・地理など理系の学問を学んだ。そしてオランダ語を学ぶことで、西洋社会に大いなる関心を抱くようになった。オランダ語で書かれた書物を通じて、西洋に目が開かれたのである。
嘉永5年(1852)には西洋の砲術や兵制に詳しい兵学者下曽根信敦の塾に入門する。西洋兵学者への道を歩みはじめていたのだ。折しもペリー来航の前年であり、相次ぐ外国船の来航に備えた軍備強化は幕府や藩にとり焦眉の課題となっていた。そうした時節を踏まえて、西洋の軍事知識を身に付けようとしたのである。
開国後の安政2年(1855)に、オランダ海軍協力により幕府の海軍伝習所が長崎で設立されると、小三郎は特別に伝習を許され、オランダ人から直接海軍を学ぶ機会を得た。オランダ人との交流を深めることで語学力はさらにアップするが、この頃から英語つまりイギリスへの関心も抱いていた。
江戸や長崎で学んだ小三郎は上田藩に戻ると、文久2年(1862)より藩の軍事力強化に取り組む。元治元年(1864)からは西洋の新式銃砲買い付けのため、開港地横浜に頻繁に通った。
小三郎にとり、横浜での日々は実に有意義なものとなる。居留地にいたイギリス軍人との交流を深めることで、英語力もさることながら、英式兵制に通じる兵学者として成長する礎になったからである。
英語力を活かして、慶応2年(1866)には『英国歩兵練法』を翻訳出版した。英式兵制の翻訳者として小三郎の名前は広く知られ、藩外からも注目される存在となった。
幕末の動乱に伴う政情不安を背景に、小三郎の関心は西洋の軍事知識のみならず、近代化を果たした西洋社会の仕組みにも向けられるようになった。兵学者の分を越えて、国政改革を志向する憂国の志士へと変身を遂げつつあったのだ。江戸、長崎、横浜での刺激的な日々は小三郎を覚醒させる。
『英国歩兵練法』を出版した同じ慶応2年に幕府が第二次長州征伐に失敗し、幕府権威の失墜が決定的となると、小三郎は藩の制止を振り切り、国事に奔走しはじめる。風雲急を告げる京都で、来るべき新時代への指針を示すため、幕府や諸藩に議会制度の導入を訴えた。しかし、そうした政治活動は翌3年(1867)の大政奉還を前に小三郎が非業の死を遂げる原因ともなってしまう。
このように、本書は憂国の志士として西洋の議会政治に注目し、日本が目指すべき新国家のグランドデザインを誰よりも早く提起した上田藩士赤松小三郎の知られざる生涯に迫ったものである。