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なぜリベラルな日本人のあなたが?——『ナイス・レイシズム』の射程

記事:明石書店

『ナイス・レイシズム なぜリベラルなあなたが差別するのか?』(明石書店)
『ナイス・レイシズム なぜリベラルなあなたが差別するのか?』(明石書店)

 なぜ、北米の白人を想定して書かれた『ナイス・レイシズム なぜリベラルなあなたが差別するのか?』を日本社会に住む私たちが読む必要があるのか。それは、日本人がアジア諸国の中での「白人」だからである。多少乱暴な比較であることは重々承知の上だが、日本人は、アジアにおいて人種・民族的ヒエラルキーの頂点に立っている。また植民地支配の歴史における加害国としての立場も欧米の白人と類似しており、加害の対象となった人々と今も同じ国に共存していながら、歴史をきちんと学ばず、加害性と向き合っていない人が圧倒的多数派である。本書は、日本における日本人、特にリベラルを自称する人々(自分を含む)にとって、まだまだマジョリティ性の特権を持つ自分自身と向き合わなくてはならないことを示唆してくれる貴重な本だと思っている。

 白人が「白人であることの意味」を語れないこと、それはつまり、マイノリティ側のことを理解するなど到底不可能であることを意味するとディアンジェロは言い切る。さらに、本書でディアンジェロは、「人種差別には当然反対です」「人種差別をなくすためにできることはしたい」と言い切るリベラルな白人のメンタリティに切り込んでいく。つまりディアンジェロは、『ホワイト・フラジリティ』で彼女が伝えきれなかった善意あるリベラルな白人にメスを入れるのである。

消費するだけのマジョリティ

 本書の冒頭のエピソードでドキリとした箇所があったので紹介する。それはディアンジェロの友人であり同僚でもある黒人女性キャロリンが、ある反レイシズム学習会に唯一の人種的マイノリティとして参加していたのだが、次回のセッションの講師役を白人男性メンバーに頼まれるというところから始まる。キャロリンは、引き受けるべきかどうか散々迷い、ディアンジェロに相談した結果、ディアンジェロも一緒に参加し見守るという形で、講師役を引き受けた。当日、唯一の人種的マイノリティとして緊張と不安と闘いながら必死で準備をしたキャロリンのプレゼンテーションに対して、白人の参加者全員がみせた態度をディアンジェロはこのように綴っている。

それなのに今、目の前で悠然と椅子に座り、キャロリンの努力の成果を易々と受け取っているメンバーたちの姿は、植民地主義の象徴のように見えた。このグループの姿勢を突き詰めればこうだ。「われわれはあなたを観察し、理解しようと努めています。そのために、あなたが働いている間は眺めています。われわれはあなたの仕事の成果を受け取り、検討します。何を残し、何を却下するか、検討に値するかしないかを決めるのはわれわれです。われわれはあなたの知識を欲していました。だから、あなたを連れてきたこの組織に感謝しています。しかし、もしもあなたが連れて来られなければ、自分たちからこうした機会を求める努力はしなかったでしょう(これまでもそうしたことがなかったように)」(11~12頁)

 いかがだろうか。ディアンジェロの鋭い分析を読んで、居心地が悪くなったのは私だけだろうか。職場で定期的に開催されているダイバーシティ&インクルージョン研修で一生懸命講義をしてくれるマイノリティ当事者を歓迎はしても、どこか消費するだけで終わってしまうマジョリティ。あるいは、マイノリティ当事者が教育してくれなければ、わざわざ自分たちで勉強する努力をしない「良い人」なマジョリティ。「植民地主義の象徴」という表現を用いたことで、実際どちら側に権力があり、どちら側に決定権があるかが明確に伝わってくる。歴史の加害性と「今」の状況とを結びつけた視点も目から鱗であった。

 しかし、ディアンジェロの批判の矛先はそこにいた白人参加者だけにとどまらない。もう一歩踏み込み、その場にいた白人である自分自身の立場と姿勢はどうだったのか、を問うていくのである。冒頭の反レイシズム勉強会の例では、ディアンジェロはキャロリンの「味方(アライ)」として急遽参加したわけだが、キャロリンがさらされている状況の大変さに共感しながらも、「良い白人」としてマイノリティの彼女を助ける側にいた自分にすっかり満足していたことをもう一度批判的に見つめ、掘り下げていくのである。

リベラルな日本人に置き換えると……

 ディアンジェロのこうした過去の自分の「よかれ」と思ってやった行動を、厳しく自問する姿勢は最近の日本でも見られる。清田隆之氏の『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス、2020)のように過去の加害の経験を赤裸々に描き、振り返り、分析し、内省する動きが見られるようになってきた。本書の随所で記されるディアンジェロの自己分析と自己批判を読む度に、私は過去の傲慢で無自覚だった自分、自分の勘違いな行動を次々に思い出すのである。私を含む、リベラルを自称する人にとって、ディアンジェロのプロセスは決して他人事ではないはずである。そして彼女は良きロールモデルでもある。私自身、自分の過去のどんなに些細な言動も見逃さずに直視し、言語化し、可視化することで、次からの自分の行動に反映しなければならないと本書を読んで痛感した。そして、今まで自分がそうしたことを避けてきたことに対して、逃げずに向き合うべきだと踏ん切りがついたように思う。

 マジョリティである、リベラルな日本人にとっては、指摘されて痛いけれど、自分自身の特権を可視化し、マイノリティの人々に向ける目線を再考するという本当の意味でのリベラリズムの必要性を強く感じる本であるはずだ。本書について「これは欧米の白人の話なので、日本社会には関係がない、無関係だ」と言い切ることができない理由は明白であろう。リベラルな日本人がこうした批判的な眼差しを我が身に向けるとき、思い描くべきマイノリティは、外国人や性的マイノリティといった様々なマイノリティ性を持った人々は当然として、日本人が植民地支配をしてきた対象である在日朝鮮人、アイヌ、沖縄・琉球人なのである。

 昨今、日本でも無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)をテーマにした研修が企業や自治体で取り入れられはじめた。韓国のベストセラー『差別はたいてい悪意のない人がする』(大月書店)の邦訳本も2021年に出版された。このように、たとえ個人において悪意がなくても、レイシズムを温存・持続させる社会構造が存在する以上、その社会で生きる人々は知らず知らずの内に偏見を学び、差別を行っていくという理解は、リベラル派の日本人の間でも少しずつ浸透しつつある。

日本におけるマジョリティ側の心構え

 しかし、反レイシズムの道は想像以上に険しい。ディアンジェロは、「白人の学生や従業員、コミュニティのメンバーを数週間、数カ月、数年かけて教育しようと試みた経験がなければ、制度的レイシズムの現実を認めさせるために何が必要かは知り得ない」(18頁)と語っている。25年間、無知・無自覚・無関心の白人に対して差別に関する教育・啓発を行ってきたディアンジェロにしか言えない言葉だ。しかし、そうした知見もいとも簡単に著者自身のバイアスの結果だと一蹴されてしまうのは、差別については誰もが「自分の感覚は正しい」と思って生きているからであろう。差別や人権についての研究は一目置かれても、実際に人々の認識と行動を変えようとすると、抵抗に遭うのである。

 ディアンジェロは、自分が白人であることの立場について、オードリー・ロードの言葉「主人の道具では、主人の家は決して壊れない」を引用している。彼女は、白人として変革しようとしている構造の内側にいることと、内側から抗うことのジレンマに自覚的である。また、白人がこうして声を上げることで、白人の声の方がマイノリティの声よりも届きやすく、白人性が強化される点についても自覚的である。

私にとって「白人性を薄める」とは、白人として社会化されることに抵抗することだ。つまり白人であることに基づいた抑圧的な態度や無知、また無知ゆえの傲慢さをなくし、レイシズムの指摘に対して自己防衛的に振る舞ったり、レイシズムに沈黙したり、加担したりしないことだ。(略)白人は中立性を欠いているにもかかわらず、レイシズムについて語るときに概してより客観的で正当であるとみなされやすい。(略)白人であることで与えられる信頼と手段をレイシズムに抗するために活用しないでいることなど私には受け入れられない。(20頁)

 私自身、2009年に日本に帰国したとき、人種・民族的マジョリティであることがこれほど生きやすいのかと、日本人特権を痛いほど実感した。これが、白人がアメリカ社会で感じている白人特権の感覚なのだろうと思って生きている。「アジアの中の白人」である日本人として、日本でやるべき仕事はたくさん残されている。ディアンジェロは白人特権を使って2冊の本を書き、様々なところで活躍している。私も日本人特権を使って、これから内側からの介入をしていきたい。

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