『ポストドラマ演劇はいかに政治的か?』「観客について」全文公開+「訳者あとがき」
記事:白水社
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本書[『レーマン演劇論集 ポストドラマ演劇はいかに政治的か?』]は、ハンス=ティース・レーマンの論文10本を編んだ日本語版オリジナルの論集である。
著者はその代表作である『ポストドラマ演劇』が2002年に同学社より翻訳出版されたが、残念ながらすでに入手困難である。また同書は欧米の上演作品をもとに書かれた巨大な著作であり、レーマン演劇理論の初めの1冊としては、必ずしも親しみやすいものではなかったように思われた。そこで本書では、より短く、それぞれに完結性を持った個別の論文を通じて、この今なお重要な演劇学者の理論への足がかりをつくりたいと考えた次第である。
本書の各論文の選択にあたっては、
底本および翻訳の初出は巻末に掲げる。ただし初出のある翻訳については今回多くの修正を加えた。
「ポストドラマ」の概念で世界的に知られるようになったレーマンだが、本書の各論文に明らかなように、その演劇理論においては、「ポストドラマ」を厳密に定義することよりも、むしろ「ドラマ」の批判に重点があったことを、あらためて強調しておきたい。ドラマとは、たんに演劇テクスト(戯曲)の1つのあり方ではなく、この世界を「主人公たちの決断と行動」として見てしまう、世界の見方そのもののことである。近代ヨーロッパ哲学と演劇から大きな影響を受け、今では世界中に広がった現実のこの捉え方を、レーマンは「日常的狂気」(本書167頁)と呼んでいる。政治、スポーツ、芸能、日常の問題にいたるまで、あらゆる出来事を「主人公たちのドラマ」のように理解することは、今では意識されないほど、世界中で当然のことになっている。しかし出来事をドラマとして見ることは歴史的な常態ではなかった。また、これによって覆い隠されてしまうものがある。例えば、今や世界は複雑化し、政治は人格よりも構造によって担われ、アイデンティティよりも関係性として現象すると言われても、あいかわらず「人物」たちを巡る「友か敵か」こそが政治であるかのように思われる。こうして世界をドラマとして理解し、その「主人公」の1人となることに誰もが多かれ少なかれ憧れてしまう状況は、日々その政治的影響力を持ちつづけている。ここにこそ「演劇史」の問題があり、演劇の理論と実践にとって根底的に批判すべき状況があると、レーマンは考えてきたように思われる。
『ポストドラマ演劇』に詳述されているように、ドラマは閉じた虚構の世界をつくり、その虚構の中に対立と解決をもたらす。出来事は想像上の和解に向けて初めから目的づけられている。これに対してポストドラマの実践は、演劇テクストとしてのドラマを絶対的中心として、想像上の解決を舞台に再現するのではなく、むしろ演劇がもともと持っていた諸要素を再検討し、それらを開くことでドラマを脱中心化し、舞台上であれ、劇場以外の場所であれ、1つの「全体」をつくるよりも、観客の知覚に開かれた様々な出会いの場面を組織して、演劇と現実の境界線を揺さぶり、ときには別の芸術形式とも交わり、あるいは芸術と芸術ではない実践さえもが混じり合う実験を行なう。ポストドラマ的実践とは、難解な知的ゲームとしての前衛演劇ではなく、わたしたちの意識と知覚を支配する「ドラマの構造」の解体を模索することで、演劇の歴史的、社会的、政治的なポテンシャルを再活性化しようとする試みの総称である。
こうして、本書に散見されるレーマン演劇理論のさらなる論点が明らかとなる。それは、演劇は本当に「自立した芸術」なのだろうか、といううたがいである。「伝統的に演劇は、根本的には自立した芸術ではなかった」(本書75頁)。むしろ演劇が自立した芸術として理解された近代の流れのほうが演劇史の例外だったのではないか? しかもその演劇の自立性と呼ばれたものは、場合によっては演劇の閉鎖性につながってしまったのではないか? 演劇はむしろ、他の芸術的実践や社会的実践に対して、本質的に開かれたいとなみであり、肯定的な意味で芸術として自立することのできない活動なのではないか?
演劇が本質的に開かれた実践だとしたら、それゆえにこそ演劇は繰り返し演劇そのものを問いに付し、考え直し、演劇自体を意識的に開くような実践を必要とすると、レーマンは考えているように思える。なぜなら、演劇を徹底して探求しなければ、演劇は安易に芸術としての自立性=閉鎖性に流れてしまうか、あるいは自立することのない実践として、すぐに他の領域に飲み込まれてしまうだろう。演劇が、他の芸術実践のみならず、例えば教育や福祉や観光、アクティビズムや地域の市民活動や企業活動に対して開かれ、混じり合っていくためには、どこまでも深く演劇について知り、考え、演劇の秩序を揺さぶる実験を続けることが必要になる。逆説的にも、演劇を開くためには、演劇を徹底しなければならない。さもなければ演劇はたんに消えてしまうだろう。本書で繰り返し説かれているように、演劇が伝える「内容」だけでなく、演劇が「いかに」表現するか、演劇の「形式」を演劇史や従来のドラマに対して新たに位置づけることが重要な理由も、ここにある。
日本語においてはTheaterという言葉が「演劇」と「劇場」に分裂する。両者を別々に考えることは可能性でもあると思われるが、同時に、レーマンが本書で「演劇」と言うとき、その言葉は「劇場」と読み替えうることにも留意したい。レーマンは、『ポストドラマ演劇』第3版の序文(2005年)において、ポストドラマ演劇の中心的な課題は、舞台上の演出よりも観客席のあり方、美的なものと倫理的なものの関係、上演における「理解」とはなにかという問い、等であると書いた。そうであるならば、本書で問われているような現代演劇の課題は、たんに演劇の実践に携わるアーティストたちにだけ課されているものではなく、すべての劇場や文化施設で働く職員にも問われているものと考えなければならないだろう。
本書所収のペーター・ハントケ論にその一端が現われているように、レーマンが待望する演劇/劇場とは、日常とは異なる、別のかたちで「ともにあること」の可能性としての演劇/劇場であると言えるだろう。わかりやすい理解、共有、協働というよりも、それぞれの孤独や徹底した自律の先に、もしかしたらありうるかもしれない、別のかたちでともにあること。演劇/劇場が「文化」「芸術」に閉じ込もるのではなく、他者とともにあるとはどういうことでありうるのかが、一つひとつの実践に対して問われているだろう。
最後にレーマンの文体についても追記しておきたい。かれの演劇理論の内容は、その文体と切り離すことができない。文体による表現が、演劇をどのようなものとして理解し、経験できるのかという可能性を拡張している。レーマンの文体は、難解に思われる部分もあるかもしれないが、演劇に対してかれが深く確信し、またいつまでも予感しつづけている可能性を、言葉で卑小なものへとおとしめないようにという徹底した配慮のもとで書かれていると思う。レーマンの言葉が翻訳されることを通じて、演劇を論じる日本語へもなんらかの寄与となれば幸いである。本訳書は、なにを翻訳するかだけでなく、「いかに」翻訳するかに翻訳の政治性があると考える実践の系譜に属している。
これからの時代に、演劇/劇場といういとなみを続けることには、どんな社会的、あるいは(直接的/間接的に)政治的な意味があるだろうか? 「現場」には、それぞれにそのことを悩み、苦しんでいる実践者がいるだろう。「現場」で考え、ものをつくり、働きつづけるために、「理論」がどれほどの支えになり、助けになるか、厳しい時代にこそ、その真価が試されるのではないだろうか。レーマンの演劇理論を、目の前の現実へと戻ってくるための「まわり道」のようにして、繰り返し辿っていただければうれしい。
林 立騎
【ハンス=ティース・レーマン『[レーマン演劇論集]ポストドラマ演劇はいかに政治的か?』(白水社)所収「訳者あとがき」より】
*本書刊行直前の2022年7月16日、ハンス=ティース・レーマンさんはアテネにて永眠されました。その大いなる功績を偲び、ここに謹んで哀悼の意を表します。
【著者動画:Hans Thies Lehmann: Ästhetik des Aufstands】