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ドミニク・チェンさん「未来をつくる言葉」インタビュー 「わかりあえなさ」つなぐためには

文:篠原諄也 写真:山田秀隆

多言語の環境で育った生い立ち

――本書では娘さんの誕生をきっかけにチェンさん自身の生い立ちを振り返っています。チェンさんは幼少期から多言語の環境にいたそうですね。

 私は母が日本人で父が台湾とベトナムのハーフなのですが、父は七ヶ国語を喋る人なんです。だから小さかった頃に父親が世界のあちらこちらにいる家族や親戚に電話をしていたことをよく覚えています。ひとりと中国語で話した後に、次はいきなりフランス語になって、その後はベトナム語になったりする。それを隣でポカーンと見ていて「一つの言語に固定して考える必要はないのかもしれない」という思いが刷り込まれた気がします。だから、「言葉は多様である」と自然に思うようになりました。

――チェンさんは日本語、フランス語、英語を使用されるそうですね。

 自分自身の考えも何語で考えているのか分からないところがあります。夢の中でも日本語、フランス語、英語が出てくるので、多分その3つが複雑に絡まっているんだと思います。「明確にひとつの言語で考えている」とは思わないんですよね。内側に沸き起こっている感情がたまたま日本語で合致する単語がプカリと浮いてきたから、それを日本語の網で拾って相手に提示しているにすぎないと思う。でもその感覚に完全に適合する言葉は存在しないという感覚もあります。

――どこかの国に帰属している意識があまりないとされていました。

 そうですね。「自分は何々人だ」という意識は全然ありません。「国籍は何か」と問われれば、テクニカルにはフランス国籍で日本では永住権で生活しているわけですけれども、それは書類上のただの分類でしかなくて。さらに一番多感な大学時代をアメリカで過ごしているので、アメリカ文化の影響は強い。だから「何々人だ」と言ってしまった瞬間に、自分の中で渦巻いている多様性が削れてしまう。そういう残念さがあるので「何人ですか?」と聞かれたら「分かりません」と答えるようにしています(笑)。

「自分の死が予祝された」瞬間

――本書は「未来の娘に向けて書いた手紙のような本」とされていました。娘さんの誕生の瞬間について綴られていた箇所がとても印象に残りました。

 はい、娘はもう7歳半になりましたが、妻のお産に立ち会った時のことを今でも鮮明に覚えていて。彼女が生まれたのは、結構スパルタなクリニックでだったんですよ。奥さんが産気づいて出産するまでの間、助産師の方たちに「じゃ後は旦那さんが側にいて、時々羽交い締めにしてあげてください」と言われて。「羽交い締めですか?」「陣痛の波があって力が出ちゃうから、後ろからグッとやってください」「どれくらいですか?」「10時間くらいですかね」みたいな感じで、助産師の方たちがパッといなくなったんです(笑)。

 そこから10時間くらい、妻を物理的にサポートする役でいました。よく「火事場の馬鹿力」と言いますけど、それが定常状態になっているようで、妻の体が人間じゃなくなっているようでした。その時点で「出産とは凄いことだ」と思いました。そして分娩台に運ばれてから2時間くらいで娘が出てきたんです。でも最初の瞬間、彼女の体が灰色だったんですよね。「あれ?生きているのか?」と思った。生き物っぽくない色で、凄くびっくりしました。でも先生が臍の緒をゴニョゴニョと触った瞬間、「オギャー!」とすごい可愛い産声をあげて、全身がパーっと赤くなって、「うわー!」となったんですよね。

――「うわー!」とは?

 その一瞬で、色んな思いが去来しました。その時のことをずっと覚えていて、今回初めて文章にした時に、「いつかおとずれる自分の死が完全に予祝されたように感じられた」と書きました。初めて親になった人たちがよく言う「死ぬことが怖くなくなる」という感覚も凄くありました。それは不思議と心地よく、ポジティブな感情だったんですよね。語弊があるかもしれないですけど、自分の死が「予(あらかじ)め祝われた」としか言いようがない。自分の死が怖くなくなるんじゃなくて、自分の生を受け継いでもらえる。自分がいなくなっても、自分の一部がこの世界の中に生き続けてくれるんじゃないか。そんな感覚を覚えたんです。日々の仕事や研究でも驚くことや楽しいことはたくさんあるわけですけど、そうしたこととは比べられないほどの衝撃があったんです。

――満たされているような感覚に近いんですか?

 自分が個として満たされているんじゃなくて、個でなくてもいいという感覚なんですよね。個体としての自分の境界が拡張されて伸長して、子どもと出産した妻、その関係性の場全体に自分が融けていく。そういう感覚があったことが今でもありありと蘇ってきます。

 その時から7年ほど経って、ある程度客観的に振り返られるようになった時に、「個でなくなる」というテーマはこれまで自分の研究でも何回も出てきたな、と気がつきました。例えば、僕が大きな影響を受けたグレゴリー・ベイトソンは、「メタローグ」という方法で本を書いていました。自分の娘で人類学者のメアリー・キャサリン・ベイトソンをよく自分の本に登場させて、彼女との架空の対話録を書いた。自分が考えていることに対して、彼の意識の中の娘が鋭いツッコミを入れていくんです。

 このテーマは、能楽の師匠である安田登さんに教わった「共話」という形式にもつながりました。共話は、夢幻能のなかで良く出てくるものです。たとえば、藤原定家と式子内親王の悲恋を題材にした「定家」に、式子内親王の霊と旅の僧の掛け合いのパートがあります。片方がフレーズを始めて途中で終わらせず、もう片方が受け継いで続けていく。それが3、4回続いて、最後のフレーズが完結しないまま、バックコーラス的に「地謡」が風景を描写しはじめる。一般には、コミュニケーションにおいては、それぞれが個体として、責任を持って発話を始めて終わらせるものと思われています。それが「対話」(ダイアローグ)ですね。対して、共話では、自分たちの発話を織り交ぜて、重ね合わせることでコミュニケーションを共に作り上げていく。さらに二人の存在が融合していった先に、風景に融けこんでいってしまう。そこに能の鑑賞者はある種のカタルシスを感じます。このイメージがまさに分娩室で娘を見た時に感じた不思議な感覚に凄く近いなと思ったんですよね。

吃音は「最も身近な他者」

――本書では吃音の症状があったことについても語られていました。

 僕は子どもの頃から吃音がありました。重度ではないんですけれど、よくテンションが高くなった時や緊張した時に、言いたい言葉が喉まで出かかっているけどその先が出ないことが頻発していました。日本語でもフランス語でもありました。子どもの頃は凄くそれがコンプレックスでした。流暢じゃない喋り方をしてしまうことに対するある種の恐怖感がありました。だから、当たり前ですが、吃音を否定的に捉えて、何とか抑圧しようと思いながらずっと生きてきたんですよね。

 2017年の夏頃に、吃音の当事者研究をしている伊藤亜紗さんにチャットで「実は吃音を持ってるんですよ」と言ったら、亜紗さんから「インタビューしてもいいですか?」と言われて。僕もその研究に凄く興味があったから「是非お願いします」と言って、インタビューをしてもらったんです。

 インタビューは編集者を含めて4人でしてもらったんですけど、全員が吃音の当事者でした。吃音について笑いながら話すような体験は初めてでした。そこで、ひとえに吃音といっても、症状や対応方法が実に多様であるとわかったんです。人によっては吃音が出ないように体でトントントンと拍子を打つ。僕の場合は、言いづらい言葉が出てきそうな予感を察知して、別の言葉に言い換えるという対応が多い。それは「言語は多様で何語で喋っていいんだ」ということと同じ構造だなと思いました。その時にはじめて、実は吃音とは自分の考え方に影響を与えている面白い現象なんじゃないか、と気づいたんですよね。

――吃音は「最も身近な他者」という表現もされていましたね。

 身近な他者というと、家族や恋人、夫婦といった関係が思い浮かぶとおもいますが、基本的に他者と一緒に生活するというのは面倒なことですよね。でも、その面倒くささを補って余る楽しさや嬉しさがあるから、一緒に暮らしている。他者は、自分の思い通りにならない存在だからこそ、ひとりでは得られない考えや感覚を教えてもらえるのだと思います。「共話」というのは、そういう相手からの影響に自分自身を開いていく姿勢だとも言えます。

 その意味では吃音も「自分が制御できない他者」に近いんですよね。吃音がずっと自分の中にいて、僕が流暢に話すことを邪魔してくる。でもちょっかいを出してくるおかげで、自分なりの体の使い方をあみだしてきた。だから、その苦労をさせてくれたのは、吃音の功績なんじゃないかと思えてきました。一緒に生きてきたおかげで、自分の考え方や表現の仕方のユニークさにつながっているんだなと肯定的に捉え直すことができたんですよね。吃音という症状と共話をしてきて、今の自分の考え方がある。その意味では、吃音もひとつの言語と呼べるかもしれませんね。もし吃音を治す薬があったとして、果たして自分は躊躇せずに飲んでしまうだろうかと考えた時、悩んだ末に意外と飲まないかもしれません。

弱さに着目したコミュニケーションを

――チェンさんはキーボードでタイピングする痕跡が全て記録されるソフトウェア「タイプトレース」を開発していますね。タイピングを見られるのは恥ずかしいことだと思います。打ち間違いをするかもしれないし、書いた後に全部消してしまうかもしれない。そういうミスや弱さも受け入れるという意味で、今の吃音のお話とつながる気がしました。

 確かに、多くの人はタイピングにおいては吃音者だと思うんですよね。打ち間違えや書き直しは言い直しや言い間違えとほぼそっくりで。「タイプトレース」を使って、普段はかっこいい文章を書くなと思う人のタイピングを見てみると、「意外と誤字・脱字が多いな」「無茶苦茶な順番で書いてるな」という発見がある。でも、そこで「この人ダメなんだな」とかは全然思わなくて、「人間らしい、愛嬌溢れる書き方をしてるな」と、相手への愛着が湧いてくるんですよね。人が不完全な状態を見るとその人のことを悪く思うんじゃなくて、逆に自分に引き付けて親しく感じられる。

 そうやって考えると、日常で会話をする時も、完璧な話し方ができる人なんていませんよね。話芸の達人やスピーチのプロフェッショナルのように、正確無比なマシンのように喋れる人もいます。でもそういう人と接するときは受け手として楽しんでいる。でも対等なコミュニケーションの相手として考えた時に、完璧な人と話すって凄く辛いことですよね。自分の不完全さだけが際立ってしまって、緊張してしまってうまく喋れなくなったりする。

 「完璧さ」が理想だというある種の通念が、洋の東西を問わず近代社会では推奨されてきました。そうやって完全無比を目指してきてしまったが故にいろんな綻びが出ているのが現代社会の特徴ではないかと思います。

――本書の副題は「わかりあえなさをつなぐために」ですが、ネット上で異なる価値観を持つ人々同士が分断されるといった、現代のコミュニケーションの問題についても触れられていました。

 そうですね、完全にわかりあえるはず、という思い込みが、コミュニケーションを時として貧しくしてしまうのだと思います。たとえばSNS上で人々がいがみあったり、揚げ足をとりあったりする。お互いの不正確さを重箱の隅をつつくように探し出して、攻撃するものとして捉えている。でもそういう認識論の行き着く先には、『マッドマックス』や『北斗の拳』のような荒凉とした世界しか待っていないと思うんですよね(笑)。

 だから、書き言葉でも話し言葉でも、お互いの不完全さや弱さに注意と敬意を払う方法が必要なのだと思います。弱さをなんでも「直そう」「強化しよう」と考えるのは、マッチョで暴力的な考え方だと思います。たとえば、目の前に言い淀んでいる人がいた時に、急かすのではなく、じっと待ってみる。うまく言葉にはなってないけど、その人の内側には確実にいろんな思いが渦巻いているんだから、そのことに思いを馳せてみる。そうしてみるだけで、たとえわかりあえないのだとしても、コミュニケーションそのものと、互いの関係性がとても豊かになります。

 考えてみれば、現実世界では僕たちは自然に「わかりあえなさ」を放っておく術をたくさん持っています。そういう複雑さが、インターネットの世界では削ぎ落とされてしまっているように感じます。それは端的に、デジタル・テクノロジーがまだ成熟できていないからではないか。だから、自然の世界の豊穣さにインスピレーションを得て、自分たちのコミュニケーション・ツールやメディアを設計していった方が良い。そのためにも、情報化社会と言われる現代では逆に、他者とは何か、言語とは何か、といった、文学や芸術が培ってきたテーマを根本に据えて考えたいと思います。そういう大きな同時代的な危機感が、この本を書くモチベーションになりました。