核戦争の瀬戸際に立った「十月の13日間」 米国の歴史学者による徹底検証
記事:白水社
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【著者動画:Martin J. Sherwin, Gambling with Armageddon】
ケネディ大統領も相反する強い感情を抑えようとしているところだ。大統領執務室のフロアを行きつ戻りつしながら弟の司法長官に語りかけ、自分は用心しすぎなのか、強引すぎるのか、柔軟すぎるのか、柔軟性を欠きすぎるのか、それともただ心配しすぎなのかと思いめぐらしているのだ。最近、第一次世界大戦に関するバーバラ・タックマンの歴史書『八月の砲声』〔邦訳、筑摩書房〕を読み、戦争はだれも止め方が分からないがゆえに起きることがあることを痛感している。「ピエール」と、彼は報道官ピエール・サリンジャーに言う。「君は、もしわたしがこの危機で間違いを犯したら2億の人びとが死ぬということが分かっているかい?」
ケネディは戦争に対する軍幹部連の無神経な態度に激怒し、いまだに矛盾した提案をする顧問たちにしびれを切らしつつあるところだ。フルシチョフ同様、平和的解決を望んではいるが、彼にも最低条件はある。すなわち、ソ連はキューバからミサイルを撤去しなければならないのだ。
ケネディとフルシチョフは、両者とも望みも予期もしなかった対決にうっかりはまり込んでしまった敵同士、イデオロギー上・軍事上の対戦相手である。1つの偶発事件、あるいは1つの誤解でも即座に核戦争の引き金を引きかねないことは、2人とも分かっている。何を達成できたところで、核戦争がまねく結果には釣り合わないと分かっているにもかかわらず、それでも両者とも自らの義務として、目標を追求し続けざるを得ないと考えているのだ。
彼らの立場は同盟上の義務と、政府の性格にかかわらずすべての指導者が直面する国内の圧力、それに自らの個人的な政治的生き残りに対する懸念によって、いっそう強められている。「[これらの措置をとっていなければ]兄さんは弾劾されていたよ」。胸を締めつけるような疑念の時、ロバートは兄にこう請け合った。大統領は同意した。
「皮肉なことの1つは、フルシチョフ氏とわたしが政府内でほぼ同じ政治的立場を占めていることなんです」とケネディはのちに述べている。「彼は核戦争を防止したいんだが、強硬な群衆からの厳しい圧力にさらされていて、彼らはその方向へのすべての動きを宥和と解釈してしまう。わたしは同様の問題を抱えている……米国とソ連の強硬派がお互いを餌にしているんですよ」
ケネディは目に見えるいかなる代償も払わずにミサイルを除去したい。マクナマラがのちに説明したところでは、ケネディの戦略は、彼らがミサイルを船でソ連に送り返すまで「ソ連人を締め上げる」ことだ。だが、用心しなければならない。あまり強く締め上げすぎると、暴力的な反応を強いることになりかねないのだ。
フルシチョフはミサイル撤去の代償として、メンツの立つ譲歩を引き出す腹を固めているが、彼が直面する難題は、党幹部会同志に受け入れられ、かつ大統領が拒否しがたい提案をひねり出すことだ。大きな未知数は、それぞれが相手を軍事的暴力行為に追い込むことなく、いかに断固として自らの立場を主張できるかである。
2人が共有しているのは──そして彼らが共有していたとする点で、キューバ・ミサイル危機に関する数々の歴史書がこれまでおおむね一致しているのは──、世界の運命が自分たちの手に握られているという確信である。
彼らは誤解していた。
1962年10月27日土曜日のこの夜、世界の運命はどの国家元首の手中にもない。それは気づかれないままひそかに、彼らの手から滑り落ち、3人の若きソ連海軍士官の手中に移っていた。すなわち、ヴァレンチン・グルゴリエヴィッチ・サヴィツキー中佐、分艦隊参謀長ヴァシーリー・アレクサンドロヴィッチ・アルヒーポフ大佐、そして政治将校イヴァン・セミョノヴィッチ・マースレンニコフである。苦境に陥ったソ連641型潜水艦内に閉じ込められ、彼らのうちの1人が日没前、実行されればフルシチョフとケネディが懸命に防止しようとしている核戦争の引き金を間違いなく引く決定に追い込まれることになるのだ。
【『キューバ・ミサイル危機(上) 広島・長崎から核戦争の瀬戸際へ 1945-62』所収「第2章 第三次世界大戦が始まろうとしていた──一〇月二七日(土曜日)」より】
戦争が起きる可能性があった──起きそうでさえあった──のは、ケネディ大統領やフルシチョフ首相が戦争になんらかの利益を見ていたからではなく、事態を制御する彼らの力が限られていたからであった。これは、土壇場になってではあれ、両者が到達した認識だった。「実はロシアの撤退はかろうじて間に合ったのである」、ハロルド・マクミラン英首相はそう思った。「われわれは非常に迅速に行動しなければならなかった」、フルシチョフは10月30日、チェコスロヴァキア大統領にこう話した。「今回われわれは本当に戦争の瀬戸際にいた」と。
軍事的危機がつねにそうであるように、危機そのものが──ワシントンとモスクワの指導者たちとは無関係に──紛争の種をまいたのだ。「平和の維持に重い責任を負う貴殿とわたしは、事態が管理不能になってしまいかねない地点に情勢展開が近づいていることに気づいている、と考えます」、ケネディは10月28日のフルシチョフのメッセージにこう返答した。
「危機管理者がすべてを管理できるできるわけではないんだ」、マクジョージ・バンディは1988年、キューバ・ミサイル危機に関するソ連の学生たちとの「スペースブリッジ」討論会〔米ソ間を衛星放送で結ぶテレビ番組〕のあとで、わたしにこう語った。「そして、そこに運というものが介入してくるんですよ」。強調するために彼はわたしの肩をぽんとたたいた。
偶発事件や誤算は、人生のその他の面の場合と同じく、国際関係には付きものであり、結果としてこれまで諸々の国が打撃を受けてきた。彼はそうほのめかした。だが、ヒロシマが残した歴史の遺産は、核兵器が絡む1つの偶発事件ないし誤算が、(スティムソンがトルーマンに指摘したように)「文明を破壊」、もしくは人類を絶滅さえしかねないという事実である。人類の生き残りは、短期的利益より長期的帰結を優先する核保有国指導者の意欲にかかっている。まさにそのことが、「ダモクレスの核の剣」がぶらさがる「か細い糸」であることを、歴史は明らかにしているのである。
キューバを(侵攻ではなく)隔離するという決定は、第一次世界大戦──だれも望まないのに、だれも止め方がわからなかった戦争──の原因の繰り返しを防いだ。だがしかし、分析を突き詰めると、あわや戦争を引き起こしかけた偶発事故と誤算の重なりから外交を守るためには、運(ディーン・アチソンは「まぐれ」だと断じた)もまた必要だったのだ。
この意味で、この危機は「核の脅威は諸々の意図とは無関係に、戦争につながりかねない」という現実に目を向ける究極の機会だった。「われわれは戦争を始めるつもりはなかったんだ」、ケネディの「隔離」演説の詳細を待ちながら、フルシチョフはこう苛立った。「彼らをちょっと怖がらせ、反キューバ勢力を抑えたかっただけなんだ」
政治学者のスコット・セーガンが‘Limits of Safety’〔安全の限界〕で究明したように、「[タカ派、ハト派の]いずれの……見方も、偶発的核戦争がこの危機の間に起きかねなかった可能性を十分考慮していないのである」
【『キューバ・ミサイル危機(下)──広島・長崎から核戦争の瀬戸際へ 1945-62』所収「第55章 「そうとはかぎらないぜ」──歴史の選択肢についての省察」より】