ウクライナ戦争の前史 プーチンの謀略に迫る「米露75年間のスパイ合戦」[後篇]
記事:白水社
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ホワイトハウスとクレムリンは、20世紀中、スパイと外交官に命じて、全世界ですくなくとも117回の国政選挙を操作した。彼らはアフリカとアジアとラテンアメリカと中東全域の国家をコントロールするために戦い、銃と金で忠誠を買ったが、けっして殴り合うことはなかった。両陣営とも強権的指導者や独裁者の後ろ盾となり、ひそかにゲリラ軍や地下運動や、いいなりになる政治指導者を支援して、相手のお気に入りの政権を転覆させた。アメリカはヴェトナムのジャングルで共産主義と戦い、ソ連は東南アジアでアメリカの敵たちに武器弾薬を密輸した。ソ連がアフガニスタンを占拠すると、CIAは彼らと戦うイスラムの聖戦士たちに何十億ドル分もの武器を送った。アメリカ側は〈ラジオ自由ヨーロッパ〉をつうじて〈鉄のカーテン〉ごしにニュースとプロパガンダを放送した。ソ連側はKGBがばらまく偽情報の奔流で反撃した。
そして最終的に、何兆ドルもの資金がワシントンとクレムリンで武器についやされ、大国同士が争いあった各国で何百万もの命が失われたあとで、ソ連はその自己欺瞞の重荷に耐えかねて崩壊した。クレムリンはその建国の噓を維持できなかった。ソヴィエトの共産主義はアメリカの民主主義よりも崇高なこころみであるという大噓を。「宇宙に飛びだし、スプートニクを打ち上げ、こんな国防体制を作りだしておきながら、女性のパンティストッキングの問題ひとつ解決できない国を想像してみてください」と、ソ連最後の指導者ミハイル・ゴルバチョフは、ハンマーと鎌のソ連国旗が最後にたたまれたあとで嘆いた。「歯みがきも、粉石けんも、基本的な生活必需品もない。そんな政府で働くのは、信じがたく、屈辱的でした」。
冷戦を戦うアメリカ人の夢は実現した。世界地図はソ連崩壊によって作り変えられた。自由民主主義の潮流が高まり、東ヨーロッパの国々は、スターリンとその後継者たちが自分たちを抑えてきた息のつまるような支配力から解放された。さらに、1991年、べつの戦いが行なわれ、アメリカがイラク軍を撃破して、勝利をおさめた。湾岸戦争はまさに衝撃波で、ペンタゴン(国防総省)が戦略的欺瞞や認識管理、情報戦の新兵器をもちいた。それらは精密誘導爆弾や巡航ミサイルと同じぐらい破壊的であることが証明された。
アメリカはそのころ、第二次世界大戦後と同様、巨像のように地球上にそびえていた。ワシントンの上層部に広まっていた常識は、世界が自分たちについてこようとしているというものだった。「外交政策上の問題はなにもなかった」。ジョージ・H・W・ブッシュが1993年1月に大統領職を離れたとき、その国務長官だったジェイムズ・A・ベイカー3世はいった。「誰もがアメリカと友だちになりたがっていた。……誰もが自由市場を受け入れたがっていた。北朝鮮とキューバ、イラン、イラク、リビアをのぞく誰もが、民主主義を受け入れたがっていた。誰もがわれわれの味方だった」。誰もがアメリカを愛していた──ロシアをふくめ。あるいは、そうわれわれは信じたがっていた。
【著者動画:Virtual Talks | Tim Weiner, The Folly and the Glory】
あまり多くはなかったが、もっと賢明な人間は、時代を支配していた傲慢な勝者の驕りの精神に慎重だった。統合参謀本部議長から国務長官になった軍人政治家のコリン・L・パウエルは、プロイセンの軍事戦略家カール・フォン・クラウゼヴィッツの言葉を引用した。「一時的な印象のあざやかさに注意せよ」。つかの間の出来事の先を見ていた者はほとんどいなかった。冷戦時代の紛争が21世紀にいかに再燃しうるかを思い描いた者はもっと少なかった。
「われわれが理解していなかったのは、将来の闘争の種がすでに芽を出しつつあることだった。将来の大国同士の競争の初期の兆候があった」と、元CIA長官で将来の国防長官であるボブ・ゲイツは書いている。ゲイツはリンドン・ジョンソンからバラク・オバマにいたる歴代大統領に仕えた。「ロシアでは、ソ連崩壊につづく経済の混乱と腐敗の結果として」──アメリカがNATOの軍事同盟を強引にロシア国境まで東へ拡大したこととあわせて──「恨みと苦々しい思いが根づきつつあった」。そして、「ウラジーミル・プーチンほどこの情勢の変化に激怒したロシア人はいなかった」。このロシアの指導者は、母国の帝国が崩壊したとき、東ドイツの部署からそれを見守っていたKGBの中佐だった。彼は政治戦の手口についていくらかの知識があった。
彼は21世紀への変わり目に権力の座に登りつめると、旧KGBの粉々になった構成要素を拾い上げて、新版のソ連国家を再建した。そこで彼は、兵士やスパイを動かすだけでなく、テレビやインターネットをあやつって、現実の認識をでっちあげた。2012年、大統領として三選をはたしたあと、プーチンは自分の権力の全領域に注意を向け、自分の部隊を準備して、アメリカに狙いをさだめた。元CIA長官代理のマイク・モレルの言葉によれば、プーチンは「実質上、冷戦時代にロシア人の行動様式であったものにかなり逆戻りしました。つまり、世界中のどこでもできる場所でアメリカに挑戦し、アメリカが達成しようとしていることを台無しにするために、なんでもできることをやるということです。アメリカを弱体化させるためなら、なんでもできることを」。
アメリカ人は、戦争と平和を夜と昼と考える傾向がある。ロシア人は終わりのない戦いを考える。彼らが正しいのかもしれない。戦闘の状況は変化するいっぽうで、戦争の性質は不変だからだ。プーチンは20年にわたって、自分の軍と情報機関の力を利用し、アメリカにたいする政治戦のための新しい戦略と戦術を作りだしてきた。彼らの反撃はゆっくりと利いてきた。この電撃戦は、アメリカの国家の心臓部を攻撃したあとになるまで見えなかった。
何年か前、モスクワのある冬の夜に、ウラジーミル・プーチンの上級補佐役で、いまやロシア連邦の無任所大使をつとめる政治戦の専門家アンドレイ・クルツキフは、公開討論会であからさまな脅迫を発した。「あなたがたはわれわれが2016年に生きていると思っている」と彼はいった。「ちがいます、われわれは1948年に生きているのです。では、その理由がわかりますか?なぜなら1949年に、ソ連が最初の原爆実験を実施したからです。そして、その瞬間まで、たとえソ連がトルーマンと原爆禁止のための合意に達しようとしていて、そしてアメリカ人たちがわれわれの言葉に真剣に耳を貸そうとしなかったとしても、1949年にはすべてが一変し、彼らはわれわれと対等な立場で話しはじめたのです」。
「わたしはあなたがたに警告したい」と彼は言葉をついだ。「われわれは情報の領域で〝あるもの〞をまさに手に入れようとしています。それはわれわれがアメリカ人と対等に話すことを可能にするでしょう」。
いまやわれわれはその武器がなにかを知っている。われわれはその起源と歴史を理解する必要がある。そして、それがアメリカの民主主義に恒久的な損害をあたえる恐れがあり、その崩壊をもたらす可能性があることを理解しなければならない。われわれはひと昔前にはじまった瞬間をふたたび体験することになる。このとき、大国同士は夜陰にまぎれて衝突を開始し、世界の運命は危機に瀕した。当時と現在のあいだには、ひとつの大きなちがいが立ちはだかっている。アメリカは、冷戦時代に持っていた展望に取って代わるような戦略的展望を失っている。そして、聖書の「箴言」がいうように、展望がなければ、民は滅びるのである〔欽定訳聖書による〕。
しかし、1948年のアメリカには、毒をもって毒を制する戦略があった。これは、世界中でその意見を聞いてもらえた、ひとりの孤高の人物の作品だった。この戦略は10人の大統領をみちびき、さまざまな決断と、外交官とスパイの策略に影響をあたえ、ソ連の崩壊に拍車をかけたのである。
【『米露諜報秘録 1945-2020 冷戦からプーチンの謀略まで』(白水社)所収「第1章 将来の闘争の種」より】