旅先で、その土地ならではの料理を味わう 『世界食味紀行 美味、珍味から民族料理まで』
記事:平凡社
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海外旅行者にとって「食」は欠かせない重要なカテゴリーだ。世界の国々には思わぬ食材や調理法があり、美味、珍味、奇食がある。旅の楽しみのひとつは、それらを食しながらのレストランでのひとときだろう。
世界の五大陸、七つの海を旅した。
国でいえば七〇ヵ国を超えるだろうか。
いずれの国も単なる観光ではなく、カメラをもちノートにメモをとりながらの取材旅行だった。新聞、雑誌に旅行記事を発表するとか単行本を書くという仕事であった。記事は観光名所や歴史遺産、風景や人の暮らしというものだったが、食味も必ず取材した。美食を仕事にしたとはなんとも幸福な話ではある。
食に関する記事は読者にとっては関心が高い。だから日が暮れたからといってホテルへ帰るとか、今夜は日本食を、などとは言っていられない。何かユニークな料理はないか、地元でしか食べられない珍味はないか、と通訳ガイドにチップを渡して残業を頼む日々であった。
こまめに現地の評判のレストランを訪ねた。場合によっては一夜で二軒、三軒のレストランを梯子したこともある。だからここで紹介した料理品目は、おそらく読者にとっても一度は試食したいご馳走メニューになっているはず、と確信している。
本書はそうした取材の折に味わったもの、また記憶にある特筆すべきご馳走など、世界各国での食味体験をまとめたものだ。ただし私は料理専門家ではないので、グルメに特化しているわけではない。調理法や食材について極力取材したつもりだが浅学ゆえの誤記などもあろうかと思う。だからなるべく料理にちなむ歴史や文化に的を絞った。料理を知ることは、その土地土地の生活を知ることであり、調理法は民族固有の技術(知恵)である。人々が何を食べているか、食材や料理名を知ることは、その国を知るキーワードとなり、言葉を学ぶ基本ともなった。多少古い話も入っているが、民族料理は時代を経てもさほど変化はないはずである。
四〇年に及ぶ私の紀行作家としての経験から語れば、欧米から遠く離れた極東の島国で、農耕民族のわれわれ日本人の常識は限られており、広い世界の料理現場では百聞は一見にしかず、目からうろこ、現地で体験しなければ理解できないことが多かった。
たとえば、日本人の主食はコメであり、ごはんがないと食事ははじまらない。しかし世界では主食、副食の区別がある国の方が珍しい。パンとかパスタは主食ではないし、中国でも米飯や麵が主食とは言えない。
料理に酒はつきものだが、世界では料理と酒が分離している国も多い。たとえばアメリカ(州による)、北欧、オーストラリア、新疆(中国)などの多くの店では酒は自分で持ち込まねば料理とともに楽しめない。日本の中国料理店は必ず紹興酒(老酒)を置いており、中国料理と紹興酒は切り離せない味覚のコンビだと思っていたが、現地の飯店(レストラン)では紹興酒はほとんど置いていなかった。また冷やし中華、アイスコーヒー、魚肉のカルパッチョは日本のオリジナルで他国では見つからない。
世界でもっとも広い面積を保有しているのは遊牧民族の国々ではないか、とも実感した。モンゴル、中央アジア、トルコ、ウクライナ、ハンガリー、ブルガリア、アラブ諸国などなど。また牛や豚は宗教上タブーの国はあるが、羊肉は世界共通で、おそらく民族数的には一番食されている肉類ではないか、と思う。現在、オーストラリア人はひとり年間八キログラム、ニュージーランド人は四キログラムの羊肉を食べている(日本人は年間わずか二○○グラム)。日本では昭和の時代になってやっと北海道で羊肉食文化(ジンギスカン料理)が誕生するが、それまでの日本には羊肉食文化はなかった。旅を重ねると今さらながら遊牧民族と羊肉料理が世界の大半を占めている、という事実に驚く。世界の食風景はモーゼの創世記以来さほど変わっていないのだ。
冷戦が終わってすでに三〇年が経ち、世界がグローバリズムという大きな経済の潮流のなかにあり、料理もスタンダード化し、どの国へ行っても同じようなコース料理が出されるようになった。
しかし、大都市の片隅や田舎の村の食堂、あるいは草原の市場では民族固有の料理はしたたかに残っており、その土地でしか味わうことのできない料理を見つけるのも楽しい旅の体験だ。
世界は狭くなったが、料理は不滅である。それは言葉や宗教と同じように、料理は民族の血に根づいているからだろう。料理を味わい、そのうまさを知ることが、また世界の歴史や文化の謎を繙くことになる。料理はその魔法の水先案内なのである。