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マイノリティを生み出し、固定し、抑圧する社会の構造を照らし出す――『マイノリティ支援の葛藤』

記事:明石書店

『マイノリティ支援の葛藤――分断と抑圧の社会的構造を問う』(明石書店)
『マイノリティ支援の葛藤――分断と抑圧の社会的構造を問う』(明石書店)

日本におけるマイノリティへの関心の高まり

 2016年、日本ではマイノリティに関する3つの法律が施行された。すなわち、障害者差別解消法、ヘイトスピーチ解消法、部落差別解消法である。また、未だ成立を見ていないものの、2015年頃から性的指向および性自認(SOGI)による差別を禁止する法律の制定も目指されている。これらの法が制定された(されようとしている)背景には少なくとも、障害者や外国人、被差別部落出身者や性的少数者といったマイノリティに対する人権侵害や生活上の不利益が今日において厳然と存在しており、それらの人々が直面せざるを得ない生きづらさに対する社会的関心が高まりつつあることがある。

 マイノリティとされる様々な人々が、生きづらさや困難、不利益、また時に不当な攻撃に直面しなければならないこの日本社会の問題を、どのように把握できるのか。本書はこうした問題意識を共有するマイノリティ当事者、支援者、そして研究者9名による6年間の共同研究の成果である。これまで被差別部落、女性、外国人、障害者、性的少数者など、個別に深められてきた既存の研究を土台としながら、様々なマイノリティを横断的に論じることを試みた。

マジョリティ問題としてのマイノリティ問題

 アマルティア・センは、人間の多様性は無視したり後から導入したりすれば良いという程度の副次的なものではなく、人間の基本的な性質であると述べた(『不平等の再検討』岩波書店)。マイノリティとの共生社会の構築を目指す本書の問題意識も、私たちが生きるこの社会のあり方を考えていくうえで極めて重要であることは間違いないが、とは言え正面から挑むにはあまりに大きく難解な問いである。そこで本書では、マイノリティへの「支援」という観点を設けた。本書では支援を、他者の生を支えたり、助けたり、保障しようとする取り組みと、広くおさえている。

 各章・コラムで取り上げた事例も、1960年代の福島県旧白沢村での母子の生存保障、1980年代の秋田における外国人女性とその子どもへの支援、2007年から始まった特別支援教育、京都市が同和行政として実施していた隣保事業、1950年代の山口県岩国市における基地周辺地域の子どもや女性をめぐる支援、また在日朝鮮人研究者やスクールソーシャルワーカーとしての経験など、多岐にわたる。

 そうしたマイノリティ支援が、どのように開始し、継続し、終了するのか。各局面において、どのような葛藤がいかにして生じているのか。事例ごとの違いや共通点はどこにあるのか。様々な時代・地域・マイノリティを対象としながら、マイノリティの生のあり方を支援の経過に即して多面的に描ことにより、日本社会が有している問題を多角的に検討している。その際、日本のマイノリティ・スタディーズを志向する私たちの関心は、マイノリティそれ自体にあるというよりもむしろ、マイノリティをつくりだし、固定・排除・抑圧し、そうした事態を放置してきた社会の側、マジョリティの側に置いた。

 支援という観点を設定した理由もここにある。私たちは支援が有する3つの性質に注目した。

 第一に、非対称性である。支援は「する-される」のように互いの位置を交換できない関係を基盤とする営為である。非対称性を内に含む支援に着目することによって、不可視化、忘却、軽視されがちなマジョリティとマイノリティとの非対称性を照らし出そうとした。「お互いが歩み寄って分かり合おう」などという生ぬるい理想に目を向けるだけでは共生社会は築けないのである。

 第二に、地域性である。支援が立ち上がり、続けられ、終わりを迎えるそのあり方は、地域ごとに大きな違いがある。とりわけマイノリティとの関わりに関しては、行政の取り組みと経験、支援団体・キーパーソンの有無、マイノリティの多寡、財政状況をはじめ、それぞれの地域固有の歴史と文脈がある。支援という営為はそうした地域ごとの違いを顕著に示してくれるものであり、日本社会をより立体的に把握させる。

 第三に、公共性である。特にマイノリティ支援が公的に制度化される時、それらに要する費用を公費から拠出するかどうかが争点化する。マイノリティ支援を制度化するための当該地域における合意形成が難しいゆえに、マイノリティや支援者は様々な戦略を駆使することになる。また成立した支援の地盤も相対的に脆く、バックラッシュも生じ、容易に瓦解する。支援の制度化をめぐる政治力学は、当該地域・時代において目指されている社会像を鮮明に照らし出してくれる。

 本書はこのように、マイノリティから日本社会を考える、言葉を換えれば、日本社会における「マジョリティ問題としてのマイノリティ問題」を双方の媒介たる支援の営為から考究するものである。

連累への気づき、罪悪感ではなく応答可能性としての責任を

 かつてアルベール・メンミは、差異が差別主義を生むのではない、差別主義が差異を利用するのだと述べた(『差別の構造』合同出版)。現実のあるいは架空の差異(違い)を発見・強調し、そこに価値と意味を付与し人々を序列づけ、これまでの、そしてこれからの抑圧と暴力を正当化する。これが差別主義の基本的な性質であると。こうした社会の秩序立てを行う極めて大きな権力(=状況の定義権)を有する主要なアクターが近代国民国家である。そこで本書ではマイノリティを国民国家にとってのノイズとしておさえた。国民国家にとって不快なノイズは、調和的な音に矯正されたり、聞こえなくなるように蓋をかぶせられたり、遠くに追いやられたり、また消されたりしてきた。本書の各事例は、そうした権力が法や制度によって歴史的に行使され、人々の常識や当たり前として定着してしまった様を描いてもいる。

 だが一方で、抑圧と排除の中で苦しむマイノリティの声に真摯に耳を傾け、応答しようとしてきた人々の実践にも、本書をとおして出会うことができるだろう。筆者自身もそうであるように、これまで気にかけなくても良かったり、無視できたり、すぐに忘れることもできた――これこそがマジョリティの特権である――マイノリティの声に出会ったとき、私たちは罪悪感に襲われることがある。過去の迫害や暴力や憎悪を自身が行使していないとしても、それらによって形作られた社会を無自覚に生きてきたという自身の連累(法律用語で「事後共犯」の意味)に気付いたとき、足が止まってしまうことがある。

 しかしロビン・ディアンジェロが述べたように、「私たちは罪悪感に陥ると、自己陶酔的になり、無力になる。罪悪感は、行動を起こさないことの言い訳なのだ」(『ホワイト・フラジリティ』明石書店)。そうだとするならば、マジョリティとしての連累に気付いたときに重要なことは罪悪感を覚えて立ち止まることではない。マイノリティの声にマジョリティとしていかに応答できるかを考えることが求められているのである。それがマジョリティとしての責任responsibilityである(response応答+ability可能性)。そうした応答の蓄積が連帯へとつながり、その力はマイノリティをノイズとするこの社会を変革していくための確かな礎となるであろう。そしてまさしく本書で取り上げた支援者たちのように、そのような実践と経験は(まだまだ不十分だとしても)着実に積み上げられてきたのである。その失敗も、またそれらへの攻撃も含め、共生社会を築いていくためのヒントが、マイノリティ支援の現場には溢れている。

 限られた事例ではあるものの、このような問題意識からマイノリティ支援を横断的に扱った本書が、より良い日本社会を築いていくうえでの一助となることを、執筆者一同、願ってやまない。

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