守り袋の誕生と進化にみる、「身を護る術」「心の拠りどころ」としてのお守り――『お守りを読む』
記事:春秋社
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平安貴族の女性たちの多くは生涯の大部分を邸宅内で過ごし、外出は極めて稀なことで、その数少ない外出のひとつに「物詣(ものもうで)」といって社寺に参詣することがあった。とくに、現世利益の仏である観世音菩薩を祀る清水寺、石山寺、長谷寺などが人気の物詣先で、心に秘めた願い事の成就のためには数日におよぶ長旅も厭わなかった。清少納言や道綱母(みちつなのはは)、菅原孝標女(たかすえのむすめ)は熱望した物詣の旅程で、野趣溢れる風景に感動し、筆を走らせている。
大和国にある長谷寺には牛車を使用しても3泊4日を要し、その行程には峠越えなどの難所も多く、盗賊に遭遇するなど身の危険にさらされることもあった。そのため、物詣の旅には警護役を担う大勢の召使いが必要で、さらに身を護る懸守(かけまもり)が携帯された。懸守は経巻や念持仏を入れた比較的大きなお守りで、最上衣の上に首から懸けて旅を続けたのであった。懸守に守護されて無事に参詣先に到着すると、念願の法悦の時間が待っていた。
平安時代末期からは熊野三山に参詣する「熊野詣(くまのもうで)」が流行し、その様子は後年、「蟻の熊野詣」と称されるほどになり、後白河上皇は34度も詣でたといわれている。平安京を出立する際には、伏見稲荷の神木の杉(験(しるし)の杉という)を拝受し、帰路には熊野権現の神木である梛(なぎ)の葉を護符として身につける慣わしがあった。熊野詣は平安京からは約1ヶ月も要する長旅となるため、旅路の安全を祈願しての行いであろうと考えられるが、神木の杉や梛に神霊が宿り、道中安全が叶えられると信じたのであろう。
古来、守り袋は外出に際して携帯されることが多かったが、江戸時代になると日常的に身に着けるように変化した。首から懸けることに変わりはなかったが、「胸守(むねまもり)」と呼ばれ、もっぱら血気盛んな若者が、腹掛けなど下着の上に着けるようになった。胸守は役者絵にも描かれ、江戸の粋で、いなせな雰囲気が伝わってくる。さらに、同時期に上腕部につける「腕守(うでまもり)」も登場し、お守りが小型化する兆候が垣間見られる。
江戸時代には、疫病退散のための民間信仰・習俗がみられるようになり、「疱瘡絵(ほうそうえ)」や「麻疹絵(はしかえ)」を門口に貼って家内に病魔の進入するのを防いだ。疱瘡絵は源為朝など武勇のある人物を疱瘡神が嫌う赤一色で描き、麻疹絵は症状の説明や、治療薬、病後の過ごし方などを記し、医学情報の発信手段ともなった。さらに、麻疹を退散させる神とされた麦殿大明神を詠んだ「麦殿のまじない歌」もはやり、疱瘡よりも死亡率の高い麻疹に感染しないように注意を払った。
江戸時代末期に、巾着型の「撫(ふ)り袋」と称する守り袋が登場し、社寺の護符を入れて着物の帯にぶら下げて所持されるようになった。このように、江戸時代にはお守の形式、ならびに携帯する方法も徐々に変化していったのである。明治時代に入ると撫り袋は「守巾着(まもりきんちゃく)」と呼ばれるようになり、茶葉を詰めて立体感を出した形状になった。それらは、袋物商や百貨店、仏具商で製作・販売され、購入者が信仰する社寺の護符を入れるものであった。
今日では定形となっている長方形の守り袋は、明治時代末期に三越呉服店が印籠をヒントに考案したのが始まりであるといわれている。高度経済成長期以降、ステッカー型、カード型、ストラップ型などが登場し、素材も古典的な金襴や錦のほか、縮緬・レース・麻などが加わり、新型コロナウイルス感染症が蔓延するに及んでバーチャル守も誕生し、お守りは時代のニーズに応えるかのように進化・多様化を続けている。