食文化史にみる国民のアイデンティティ――『食文化からイギリスを知るための55章』
記事:明石書店
記事:明石書店
本書の中ほどで「味覚は個人差があり、ご自身で食べていただくよりほかに判定のしようがない」という文に出逢う。うっかりしたのだろう。そう言ってしまえば、この本も成り立たなくなる。にもかかわらず、巻末の「参考文献」欄を見れば分かるように、日本語で読めるイギリスの食文化に関する書物は、訳著も含めると、五十冊は下らない。文字でもよいから、人に伝えたい魅力が、イギリスの食文化には秘められているからであろう。
本書の執筆陣も自らの舌をもってイギリス料理を直接体験してきた面々だけに、どの章もその時の感慨に支えられている。日本食とは明らかに異なるその味わいや食習慣が、帰国後もいつまでも記憶に残る。イギリス生まれの初の外食メニューのフィッシュ・アンド・チップスは言うに及ばず、B&Bの量の多さに驚くイングリッシュ・ブレックファスト。ブラック・プディングやキッパー体験やキドニー・パイとの出逢いなどは、滞英中の異文化体験の感動が正直に伝わっている。「これはうまい!」という土地の食べ物に出逢えた感動かというと、しかしそうではない。
学生や在外研究員として長期滞在に恵まれた執筆者の情報は、出来合いの食品というよりも、生活に根差したものが多く、シェパーズ・パイやビーフ・ウェリントン、焼き菓子のスコーンやショートブレッド、クリスマス・プディング、スコットランドのハギスなどのレシピが随所に紹介されており、長期滞英を予定している者には貴重な情報になるはずである。
これは最新版の「イギリスうまいもの案内書」と言いたいところだが、言い止まらせるものがある。「うまい」という用語を本文中に見出すのは難しい。ようやく見つけた「本当はおいしいイギリス料理」という表現は「第五部」の見出しとなっている。「本当は」という述べ方に、放っておけない、何かを伝えたい執筆陣の、複雑な想いが込められている。コンチネンタル・ブレックファストとの違いやアフタヌーン・ティーとハイ・ティーの対照、ランチ、ディナー、サパーの区別などから、食材や食習慣の違いや、ただ茹でただけとか揚げただけの根菜類などの料理や調味の仕方の違いに及ぶまで、その具体的な紹介には、共通して言及対象に魅せられた執筆者の語調が伝わってくる。それは、ローマ人、アングロ・サクソン人、ノルマン人の支配下で苦汁をなめてきたブリタニアの永い時代の中で培ってきた人々の独特の食文化への敬意と歴史意識とを、ほぼすべての執筆陣が土台にしているからであろう。
彼らは、担当する章題やコラムの歴史的背景に言及することを欠かさない。中には、将来の変化を予見している章もある。史的パースペクティブとでもいえるものが本書の一貫した編集方針なのかもしれない。そう思って読み直してみると、冒頭から「食卓の文化史」であり、外国料理の受容史、「食材の文化史」、「飲み物の文化史」へと続き、文学作品に見られる料理で閉じている。どの章も、それぞれの時代の生活現場の食べ物描写に、読者は生きた「イギリスらしさ」を見つけることができる。
食の文化史としてイギリスの時代を遡行する時、小生が在外研究として選んだ国を報告した折反応した副学長の一言は、「食べるものは期待するな」であった。このほぼ定まった評価を如何に覆すかが、日本人の出すイギリス食文化の著書の隠れたテーマである、と言っても過言ではない。本書もその酷評の歴史的背景に関心を寄せている。
清教徒の克己主義的な食習慣がまずいイギリス料理の原因とか、18世紀の反仏運動の煽りで、厳格なマナーと脱仏料理がイギリス料理をまずくしたとかの、これまでの指摘に触れた後、本書は、「まずいイギリス料理が定着したのは」第二次大戦中、食料配給制をとって、国民の栄養状況を改善させ、階級間の食事の格差を無くし均一化した政策を、戦後も長く継続して国民性の克己主義を浸透させたためである、と指摘している。これから分かることは、イギリス国民が多分に克己主義的で自給自足の質素な、アングロ・サクソン人の食文化を、その後の非常時や変化の時代に、国民のアイデンティティとして蘇えらせてきた、という事実である。
とくに特徴的なのは、近隣諸国の外国料理に表向き距離を置きたがるイギリス人が、それらの国の食材や料理の調理法まで積極的に輸入しているだけでなく、宗主国として植民地支配していた国々の人民を積極的に受け容れ、その国の国民食まで自国に根付かせていることだ。「イギリスの国民的飲み物」紅茶もこの国の「食文化を代表するジャガイモも外来のものである」ことが明かされる。それらの外国料理は今やイギリス国民の食卓を彩るまでになっている。とはいえ、それらはイギリス人の味覚嗜好に合うように調理されている、と本書はコメントしている。ちょうど日本のカレーやラーメンがそうであるように。
食文化の歴史を通観してみて、一つだけあまり変わってないものがあるのに気づいた。それは、上流階級とか富裕層の食事献立と貧しい労働者とか庶民層のそれとの格差が厳然と残存していることであろう。白パンとライ麦パン、ポークとピッグといった風に。それはイギリスに限らないことかもしれないが、階級意識は今も根強い。庶民の中流化や中流階級の台頭は、上流志向とともに、外食産業の台頭やテイクアウェイの習慣を促進してきたことも窺い知れる。ただ、差別感のあからさまなパン類だが、豊富なヴァリエーションにもかかわらず、その味覚の奥深さはフランスパンを凌ぐ、と高く評価しているのは、本書の24章担当の日本人執筆者である。
最後にもう一つ、近い将来のイギリス食文化への示唆を本書が提供していることも見逃すべきでない。それは、例えば、庶民の食べ物である「コテージ・パイが、ウィリアム王子とハリー王子の、大好きなランチのメニューの一つだった」という情報に集約されている。年収の格差が階級格差となり食事の格差として残存しているイギリス社会で、その種の差別が氷解しつつあることを暗示している。大掛かりな手の掛かるオーブン料理は、家庭内でも影をひそめ、情報網の発達で「食への目覚め」が急速に進んでいるとともに、多種多様な食材や調味料が入手可能となり、レシピも国際化し、国産エールだけだったパブのカウンターには、東欧のピルスナーはもとより、日本のビールも並ぶ。
にもかかわらず、イギリス食文化のアイデンティティは崩れない、と思う。執筆者全員がそのことを信じている。味覚を通してだけでなく、味覚世界の奥に隠れている、土地、歴史、気候、人種、入手食材や調味料、生活様式など、史的アプローチで総合的な目配りを経て、初めてイギリスの国民性に触れたからであろう。その国民性とは、いつもは眠っているあの克己主義。歓談の中に食事があるのではなく、寡黙のうちに静かに過ぎる食事。その中にあるイギリス人のアイデンティティのことである。そのことを読者も本書の読了間際の、ジョージ・エリオットの引用文が気づかせてくれる。食卓には、料理を作った人もそれを享受する人も皆、思いやりに溢れている、という国民性に気づかせてくれる。
私たち人間は、男も女も朝食と夕食の間に、多くの落胆を呑み込み、涙をこらえ、青ざめた口調で問いに答えて、「いや何もないよ」と言う。プライドは私たちの手助けとなり、人の気持ちを損なうことなく、自分の心の傷を隠すようにする時のみ、それは悪いものではないのだ!(第6章)