日露戦争前後に大きく変容をみせる日本文化を俯瞰する!
記事:平凡社
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本書は、日露戦争を前後する時期から、明治の終焉(1912年7月30日)のころまでを焦点に、政治・経済・生活および精神文化総体の変容を扱う。明治の終焉は、たしかに時代を区切る出来事だった。1910年、韓国併合を果たした大日本帝国は、明治維新以来、北海道を含めると領土を約2倍にした。明治天皇は、その歿後、神武に次ぐ大帝と称えられた(『太陽』増刊「御大葬紀念号」1912年10月号など)。
そののち、大正は「外には帝国主義、内にはデモクラシー」といわれる。先にふれたように、日本は欧州大戦にイギリスなどの協商国側に立って参戦したが、それほど積極的にかかわらずに、とりわけシベリア出兵など膨張政策を展開したことは国際的にも警戒を招いた。だが、1920年にはそれらを撤収し、国際協調路線に転じ、国際連盟の常任理事国となった。それはいわば大正デモクラシーの到達点だった。外と内とは連動していたのである。そして、そのような路線転換もあって、しばしば「大正」はとらえにくい時代といわれてきた。それには内外の政策転換の関連がよくとらえられていないだけでなく、他にも、いくつかの理由がある。
とらえられてこなかったことの一つは、日露戦争を前後する時期に、一般庶民の生活、物質文化・精神文化ともに大きな様変わりが起こっていたこと、もう一つは、欧州大戦後、とくに1923年9月の関東大震災を前後して、マスメディアが発達し、大都市中心に大衆文化が形成されていったことだった。言い換えると、「明治」「大正」「昭和」という元号で時代を区切ろうとすることに無理がある。
昭和戦前期の社会については、第二次世界大戦後、歴史学の主流になった勢力(マルクス主義講座派)が、資本主義が発達していることを認めながらも、革命前のロシアと類比し、近代天皇制を絶対君主制と見て、それと地主階級とが支配する「(半)封建制」としていた。が、実際のところ、1920年代には新聞の全国紙化や総合雑誌・婦人雑誌の展開があり、各種「円本」のシリーズ、また映画が盛んになり、ラジオ放送が開始されるなど大衆メディアが発展し、モダン都市の風俗が展開していた。たとえばアメリカではカタログ販売が盛んになるなど、先進各国それぞれに特徴をもちながらも、大量生産/大量宣伝/大量消費の歯車がまわりはじめ、身分や階級を超えて消費財や情報が共有され、そのときどきの政治・経済・文化の動きに反応する不安定で不定形な大衆が形成され、政府も、その動向に絶えず規定されざるをえない、いわゆる大衆社会が形成されていた。それについて、わたしも及ばずながら、1980年代から認識の転換を促してきた(海野弘・川本三郎と共編『モダン都市文学』全10巻、平凡社、1989~91。『日本の文化ナショナリズム』平凡社新書、2005など)。さらには、1931年9月に端を発する満洲事変からの日本の迷走ぶりも、かなり明らかにしえたと思う(『「文藝春秋」の戦争――戦前期リベラリズムの帰趨』筑摩選書、2016。『満洲国――交錯するナショナリズム』平凡社新書、2021など)。
だが、日清・日露戦争を前後する時期については、いまだ明確にされていないところが多々残されている。ヨーロッパで19世紀に起こった国民国家――同じ法律のもとでの国民の平等――に向かう流れをアジアでは日本が唯一、受けとめ、それを実現し、「殖産興業、富国強兵」を合言葉に、国家が発行する貨幣に支えられた資本主義経済を発展させ、産業革命が進行した時期であることは、今日、誰しも認めよう。しかし、それを第二次世界大戦後の日本でそうしてきたように、「近代化すなわち西洋化」のようにまとめることには無理がある。国民国家を形成し、1889年に大日本帝国憲法が公布されたのは西洋にならってのことだが、その憲法が古代から万世一系の皇室を仰いでいることは、西洋にはない日本の「伝統」を誇る態度を伴っていた。「武士道」ブームも、また修養の季節に禅宗や陽明学が盛んになったことも西洋化とはいえない。そこで今日では、近代化すなわち技術革新(欧化)と伝統思想(国粋)のせめぎあいの図式(scheme)で読みとる見方が盛んになっているかもしれない。
ところが、その「殖産興業」は、江戸中後期に諸藩が藩政改革に乗り出したころからの機運であり、天地自然から産物を開発することを意味する「開物」思想に支えられ、新田のみならず、鉱山や材木、果樹、染料など地場産業の開発が盛んになり、醸造や織物、藺草による畳表から刃物に至る家内工業・手工業を盛んにし、全国市場が展開するまでになっていた。今日では、それによって洪水の多発や水質汚染などの被害が全国各地に頻発し、農民の一揆や訴訟も多発していたことが掘り起こされている。だが、それらの被害は大規模に及ばず、一揆などもさほど大きなものにならなかった。(中略)
この江戸中後期の「開物」思想の展開の上に、明治前期に、国家主導で外国人技術者を雇い入れ、西洋から機械を導入して技術革新が進んだ。それゆえまず、旧武士身分の子弟が熱心になったのは物理系の技術だった。これは朱子学の「究理」の語を用いて「究理熱」と呼ばれた。経済においては、藩ごとにあらかじめ決められた米の石高による税制を、土地の私有制と各戸毎の金納制に転換し、「武家の商法」や米相場に手を出して破産する者が出るなど混乱を伴いながらも、全体としては比較的スムーズに資本制に移行しえたのだった。
「伝統」の方も先に述べたように、天皇崇拝とそれと密着した「国体」論は、幕末維新期に俄かに盛んになったものだった。「武士道」が日本の伝統のようにいわれるようになったのは、日清・日露戦争が契機となっていた。時期を違えてだが、どちらも精神文化における「伝統の発明」がなされたのである。つまり、日本の近代化の過程を西洋化すなわち技術革新と、それが伝統思想とせめぎあったという図式によってとらえることもできないのだ。
(中略)
日清・日露戦争期は、文科系の観念の制度も近代的に整えられてゆく過渡期にあたる。たとえば、日清戦争期、博文館の創刊間もない『少年世界』(1895年10月後半号)で「文壇の三名士」としてあげられているのは、徳富蘇峰、三宅雪嶺、志賀重昂だった。そのころまで一般に「文章」といえば、漢文書き下し体を指しており、彼らが当代の「文壇」を代表すると目されていた、徳富蘇峰が『国民之友』で、表看板にうたった「政治・経済・文学之評論」の「文学」は、広義のそれ(大学の文学部の「文学」)であり、その柱に「史伝」(歴史と伝記)を立てていた(論壇と文壇が分立するのは1910年頃)。
ことばの意味は歴史的に変わる。これは誰でも知っている。が、具体的にとなると辞典に頼ることになる。明治期のことばの意味、概念(コンセプト)の転換は、漢語と英語の訳語の成立と関連し、ちょっとややこしい。現行の辞典の説明は不十分で、調べなおさないとならないことが多い。日本語の訳語だけでは追いつかないことに、長く気づいてこなかったからだ。
(中略)
このようにして20世紀への転換期には、広義と狭義の二つの「文学」概念が併行して成立し、扱う対象範囲のちがう「日本文学史」が二種、並び立つことになる。そのとき、「日本文学」に、漢詩・漢文を含めるかどうかという問題も絡む。それによって「日本文学史」の景色は、全くちがうものになる。
(中略)
このように日露戦争を前後する時期は「自然」や「日本文学」の概念にしろ、日本語の文体にしろ、文化全般諸制度が大きく組み換えられてゆく時期にあたる。しかし、その組み換えの実態は、第二次世界大戦後から1980年代にかけて論じられてきたのとはかなり相違し、また内部に矛盾・対立を孕んで展開していた。なかにはいまだに解決がついていない、かなり重要な問題も残っている。本書では、時代相に即して、せめて課題の整理くらいは試みておきたい。
序 章 二〇世紀日本の進路を決めた戦さ
第一章 日露関係、前史
第二章 文化ナショナリズム、その複合的展開
第三章 日本の生命主義、その出発
第四章 日露戦争へ
第五章 日露開戦から韓国併合まで
第六章 明治の終焉と大正デモクラシー
第七章 修養と情緒耽美
第八章 日本の人文学─ その出発
第九章 西田幾多郎『善の研究』のことなど