朝鮮の“ラストエンペラー”李垠の謎の生涯。日韓の動乱の歴史の闇に隠された実像が、初めて明らかに。待望の第3巻
記事:作品社
記事:作品社
本書は、李氏朝鮮“最後の王”であった李垠(り・ぎん/イ・ウン。1897~1970年)の評伝の第3巻にあたる。3年前に上梓した第1巻(大韓帝国期[1897~1907年])では、これまで誰も真っ正面から読んでこなかった「護産庁日記」(皇子が生まれる前から誕生後までの日記)や「英親王府日記」といった一次資料を読み込み、李垠が大韓帝国最後の皇子として前近代性をまとって世に生まれたこと、李垠の父である高宗がロシア帝国に依存し、近代化も試みられていたこと、すなわち李垠を取り巻く環境の近代性についても述べた。「英親王府日記」を読み込むことで、高宗が「風火之祟」すなわち「ちょっとした風邪」といって部屋にこもり、そこで「ハーグ密使事件」を画策していた事実も明らかにしたと自負している。
そして第2巻(大日本帝国[明治期 1907~1912年])では、日露戦争によって日本が大韓帝国を支配下に置くと、それまでの親露派から親日派へと政権が移り、伊藤博文の影響下で、日本式近代を朝鮮が受け容れざるをえなくなること、そのなかで李垠が日本へと「留学」されたことを詳細に述べた。とくに、李垠が「御学問所」に匹敵する「鳥居坂御学舎」を与えられ、ここで英語など近代教育を受けたり、全国各地に「旅行」に出かけたりしたこと、しかもその際、内務官僚である伊藤博文は、各地で陸軍ではなく、反陸軍という意味を込めてむしろ海軍に接近している様を詳細に述べた。
この第3巻は、その後の李垠を描くが、まずその前に日本と朝鮮のあいだでどういうことがあったのかという考証がある。例えば序章では、オリンピックに出場したアイヌのことや、白瀬矗の南極探検などについて語り、また李垠の妹である李徳恵の生誕に関する研究も欠かさない。本書で主に使われた日記は「徳寿宮賛侍室日記」であるが、これもいままで有効に使われたことのない日記である。この日記をひもとくと、大正天皇と李垠の友情が一時期乱れている(山県有朋の宮中掌握によるものと推定)ことや、ふたりの友情が復活していくことが読みとれる。そして、はからずも彼は、「自分は朝鮮王族なのか、日本の準皇族なのか」と悩む姿も手に取るようにわかってくるのである。
本書の特色は、やはり“日記”の読み込みと、他の社会情勢を絡めながら進めるという手法にある。そのため、これまで誰も見ていない日記類も引用される。例えば、軍学校での皇族(準皇族たる朝鮮王公族)の生活を垣間見るため、あえて時代を巻き戻して「北白川宮成久王御附武官の日記」を読み込み、また大正期の陸軍士官学校の生活を肉付けする意味で「本村信夫日誌」や「梅沢治雄日記」など、有名将校、無名将校を問わず、古書店で手に入った手書きの日記類も分析する。「本村信夫日誌」は、スペイン風邪やシベリア出兵に関する記述も多く、当時の日本そして朝鮮・満州を知る上で非常に示唆的なものであった。
結章では、やはり第一次資料の「徳寿宮近侍係日記」の分析から、高宗毒殺説を否定し、さらにはそれによって1年延期された梨本宮方子女王との結婚話について詳しく述べた。この大正8(1919)年の正月から12月31日までの方子女王日記が残されており、ここから李垠と方子女王が悲劇的な政略結婚などではなく、むしろ相互に愛しあう純愛結婚であったことが証明できたことも大きい。もちろん、政略結婚の側面が全くないとはいわないが、日記を通して、ふたりが愛しあっていたこと、そして方子女王が一年間でどれだけ女性としてまた「最後の王妃」として成長していったかがわかるだろう。この日記も、これまで誰も読んでこなかった日記である。
なお本評伝は、次巻「第4巻 敗戦前後日本・大韓民国期(1920~1970年)」で完結となる。1920年以降は、これまでのような詳細な日記がない代わり、私が発掘した文献は多くある。これらを駆使して、李垠がどのような生活をしていたのか、描ききりたいと考える。
例えば、李垠は田園調布に暮らすのだが、ここでカトリックに帰依している。もしも彼が身位喪失していなかったら、すなわち朝鮮王族だったり日本の準皇族だったりしたら、国事行為と齟齬を来すキリスト教に入信できなかったはずだ。これらの物語をまとめるべく、いま筆を走らせている。
『李氏朝鮮 最後の王 李垠』シリーズ(全4巻)
第1巻「大韓帝国 1897-1907」(好評既刊)
第2巻「大日本帝国[明治期]1907-1912」(好評既刊)
第3巻「大日本帝国[大正期]1912-1920」(本巻)
第4巻「大韓民国/敗戦前後日本 1970-1920」(2023年刊行予定)