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時宗に深くかかわりのある、「阿弥」を名のる存在の実像に迫る…。

記事:平凡社

空也堂の踊念仏(出典:『拾遺都名所図会』〈天明7年刊〉、国文学研究資料館蔵、図像:国文学研究資料館日本古典籍総合データベース)
空也堂の踊念仏(出典:『拾遺都名所図会』〈天明7年刊〉、国文学研究資料館蔵、図像:国文学研究資料館日本古典籍総合データベース)

1月10日刊、平凡社選書『阿弥衆――毛坊主・陣僧・同朋衆』(桜井哲夫著)
1月10日刊、平凡社選書『阿弥衆――毛坊主・陣僧・同朋衆』(桜井哲夫著)

「世阿弥」か「世阿」か

 「阿弥衆」といっても、一般には通じないかもしれない。だが、観阿弥や世阿弥、さらに作庭家の善阿弥といえば、高校の日本史教科書にも出てくるので、なじみがあるだろう。能の世阿弥については、多くの研究書や紹介本があるが、世阿弥と時衆(「時宗」という表記は江戸期から)との関係については、ほぼ記されていない。

 1960年代に能研究家の香西精こうさいつとむ氏によって、世阿弥が奈良の曹洞宗寺院(補巌寺ふがんじ)で出家し、至翁善芳しおうぜんぽうという出家名を持っていたことが発見された。このことで、今日まで、「世阿弥と時衆との関係」については、一件落着のように思われてきた。だが、すでに時衆の先駆的研究者であった金井清光氏が鋭く批判していたように、「世阿弥」という名称は、彼の死後50年も経ってから現れた名前で、生前の伝書では、「世阿」か「世阿弥陀仏」である。

 旧著(『一遍と時衆の謎』)でも検討を加えたが、今回の新著では、「○阿弥」と名乗る「同朋衆」という足利幕府の職制は、世阿弥の生きた時代にはまだ存在していなかったことに焦点をあてた。三代将軍足利義満の周囲にいたのは、義満に近侍した高位の武家の出家者(遁世者、「○阿〈弥陀仏〉」と名乗る時衆)のみであって、後の同朋衆のような仕事にはついていない。「世阿」は、足利義満が与えた「阿号(正確には○阿弥陀仏だが、略して○阿で阿号という)」だが、時衆としての「阿号」は、『時衆過去帳』にある「来阿弥陀仏(観世三郎)」だろうと思われる(梅谷繁樹氏の推定による)。

 さらに同朋衆の祖型は、戦場におもむいて治療を施し、最後の十念をさずけ、遺骸を葬り、遺言や形見の品を遺族に届ける時衆の「陣僧」であった。彼らは「連歌や和歌」の達者でもあり、それが武将たちに「賞翫しょうがんされる」同朋となった要因でもあった。

 「陣僧」は、情報伝達者の役割も担っていたので、次第に各宗派の僧たちにも課せられる役となっていった。しかし、時衆の場合、遊行上人が、調停役となって停戦や和解の仲介もしていた。最も有名な例は、大永だいえい元年(1521)、24代不外ふがい上人が、武田信虎のぶとら(信玄の父)を説得して、籠城した駿河今川衆3,000名の命を助け、無事帰国させたことだろう。

 ところで、「陣僧」や「同朋衆」という用語は、すでに歴史用語として定着している。だが、「客僚」という言葉は、時衆研究者を除いて、ほぼ一般には知られないままと言っていい。今回は、旧著でも触れた「客僚」について、さらに詳しい事情を明らかにした。

遊行上人を支えた「客僚」

 「客僚」とは、仕える主君に追われたり、親族から追われた者が、遊行上人のもとに逃げ込んで、最下級の沙弥しゃみとして白袈裟しろけさを与えられ、にわかに出家した者を指す。そして客僚が滞在する場所(避難所〈アジール〉)を「客寮」と呼ぶ。彼らは、「○阿弥」という阿弥号を用いた。有髪で妻帯していた客僚は、藤沢周辺や関東から各地方に散らばり、様々な職業についた。たとえば、時衆出身の医師の存在は、中世医学史を語る上では欠かせない存在である。また、大鋸おが引き(大きな鋸をひく大工職)など藤沢の客僚は、伊勢宗瑞そうずい(北条早雲)と三浦氏との争闘のなかで焼失した総本山清浄光寺しょうじょうこうじ(通称が遊行寺ゆぎょうじ)の跡地(藤沢古跡)を、江戸初めの再建まで94年間守りぬいた。

 また、全国に散らばった客僚は、様々な経済活動(貿易など)に従事し、遊行上人の廻国の際には、必ず馳せ参じて支援を行ったのである。そして、関東各地に散在した客僚たちは、「鉦打」と呼ばれた。彼らは、統括する「小本寺しょうほんじ」の配下として、遊行上人の廻国時に「触れ役」や「接待役」として活動した。

円山安養寺(出典:『都名所図会』巻3〈安永9年刊〉、国文学研究資料館蔵、図像:国文学研究資料館日本古典籍総合データベース)
円山安養寺(出典:『都名所図会』巻3〈安永9年刊〉、国文学研究資料館蔵、図像:国文学研究資料館日本古典籍総合データベース)

 一方、西国では、「鉢叩」と呼ばれる空也上人系の俗聖ぞくひじりが活動していた。そして、京都の四条道場金蓮寺こんれんじは、中世京都の僧俗文化人が集まる文化サロンの役割を担っていた。さらに、江戸期の京都東山においては、霊山正法寺りょうぜんしょうぼうじの末寺である安養寺あんにょうじ塔頭たっちゅう群(六阿弥りくあみ)などで、妻帯有髪の僧が、独自の料亭文化を花咲かせていた。

 また、近年の研究で、京都の時衆寺院では、いくつもの火葬場を運営していたことなどが、わかってきた。もともと、戦場での最期の看取りや埋葬などに関わっていた経験の積み重ねだろうと思われるが、葬儀の歴史のなかで確固たる位置を占めていたのである。

 さらに、自治都市・堺のなかに、三宅専阿せんあ(弥陀仏)によって創建された引接寺いんじょうじという大きな時衆寺院があったが、この寺のほど近いところに千利休の自宅があった。利休(先祖が「田中千阿弥」だとされる)は、おそらくは三宅一族の系譜につらなる人物で、時衆とのつながりもあったのではないだろうか。有力な初期堺町衆の多くは、「○阿弥陀仏(「○阿」)」という阿号を持っていたことも、利休と時衆とのつながりの傍証となるかもしれない。

 まだまだ時衆(時宗)については、謎が多い。議論が活性化されることを望みたい。

『阿弥衆――毛坊主・陣僧・同朋衆』目次

はじめに──阿弥衆とはなにものなのか
第1章 毛坊主・客僚・陣僧
    1 毛坊主/2 客僚/3 陣僧
第2章 時衆と同朋衆──北条政権から足利政権へ
    1 光明院の倉/2 同朋衆
第3章 関東の「鉦打」聖
    1 柳田國男と足利の「鉦打」/2 真教寺と鉦打/3 鉦打と鉢叩
第4章 京都の時衆
    1 四条道場七条道場/2 白蓮寺と鳥辺野/3 霊山正法寺と国阿
第5章 円山の六阿弥
    1 料亭・左阿弥・2 六阿弥/3 也阿弥ホテル
終章 「毛坊主」の運命
補論──引接寺はどこにあったのか
あとがき

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