現職の外務大臣が明かす「手の内」 S・ジャイシャンカル『インド外交の流儀 先行き不透明な世界に向けた戦略』[前篇]
記事:白水社
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世界がインド外交に注目している。それは今に始まったことではなく、急速な経済成長を背景に国際的な存在感を強めるインドへの関心は近年、高まる一方だった。だが、2022年は注目の度合いが一気に高まった感がある。ロシアのウクライナ侵攻によって世界の分断が深まるなかで、インドがいかなる姿勢で臨むかが事態をめぐる鍵の1つと見なされたためだ。国連でのロシア非難決議案に棄権票を投じるのはなぜか。米欧日が厳しい経済制裁を科しているのにもかかわらず、インドがロシアからの原油や石炭の輸入を増加させている背景には何があるのか。その一方で、日米豪とともに「クアッド」を形成したり、「インド太平洋経済枠組み」に参加したりしているのはなぜか──。
こうした疑問は、本書を読めばきっと氷解するはずだ。『インド外交の流儀──先行き不透明な世界に向けた戦略』(原題The India Way: Strategies for an Uncertain World)というタイトルが示しているように、本書では不透明さを増しつつある世界においてインドが現状に向き合い、未来を切り拓いていこうとする際の「インドならではの手法」が論じられている。同時に、現在のインド外交が過去の理想主義的外交とは一線を画し、とくに1991年の経済自由化以降に大きな転換を遂げるに至った経緯も随所で強調されており、インド外交史を知るうえでも不可欠の1冊になっている。
【原書紹介動画:The India Way: Strategies for an Uncertain World by Jaishankar | HarperBroadcast】
本書の著者S・ジャイシャンカル氏ほど、インド外交を論じるのに適役はいないだろう。同氏は2019年5月以来、外務大臣としてインド外交の舵取りを担っているだけでなく、職業外交官として40年あまりにわたりその最前線で主要国との関係構築や重要課題の交渉、トラブルシューティングに携わってきた人物だからだ。彼の外交官人生は、ほとんどの時期で1970年代後半以降のインド外交における最重要分野と重なっていた。
S・ジャイシャンカル氏は1955年に首都ニューデリーでタミル系の家に生まれた(なお、タミル系の人名は、父の名前の頭文字を自分の名前の前に置くかたちをとることが多い。したがって「S」はファーストネームの省略ではなく、父K・スブラマニヤム氏の頭文字である)。大学卒業後、1977年にインド外務省に入省した彼にとって、最初の海外赴任先はソ連だった。本書でも繰り返し述べられているように、1970年代初頭に形成されたアメリカ・中国・パキスタンの連合に対抗すべく、インドはソ連をもっとも重要な連携相手と位置づけて、関与の度合いを高めていった。外交官として最初に向き合ったのが当時の二大超大国の1つだったことで、国際政治の現実と厳しさ、そのなかでインドが生き抜いていくことの重要性を実感したのではないだろうか。その後も冷戦期のアメリカやインドが内戦に介入した時期のスリランカに赴任したほか、1996年から2000年までの約4年にわたり次席公使(大使に次ぐナンバー2のポスト)として駐日大使館で勤務した経験もある。
【著者インタビュー動画:The India Way: Strategies for an Uncertain World by Dr. S. Jaishankar】
インド外交がその空間を大きく広げることになったのは2005年にアメリカと結んだ民生用原子力合意だが、このときジャイシャンカル氏は本省のアメリカ局長として交渉の実務を担う立場にあった。大使としては、チェコとシンガポールという各地域の重要国、そして中国とアメリカという現在の二大大国でインドを代表してきた。2015年1月には外務次官に就任し、事務方のトップとして3年にわたりインド外交の陣頭指揮に当たった。
退官後はシンクタンクに籍を置くなどしていたが、2019年5月にインドと世界をあっと言わせる人事が発表された。第2次モディ政権で、外務大臣に任命されたのである(インドでは閣僚は議員である必要があるため、同年7月に上院議員にも選出された)。インドで職業外交官から外相になったケースは過去にもあるが、外務次官を務めた者が退官後に大臣になったのは、これまでのところジャイシャンカル氏が初めてであり、モディ首相の信任の厚さを物語っていると言えよう。
本書ではこのような経歴を持つ著者によって、多極化する世界の中で国益を冷徹に追求するとともに国際的地位の向上をめざし、世界との調和を図っていくというインド外交の要諦が明確に論じられている。どのチャプターもインド外交を理解するうえで大きな示唆をもたらしてくれるが、訳者がとくに興味深く感じたのは、叙事詩『マハーバーラタ』で現代世界とインド外交を説明しようとした第3章「クリシュナの選択」である。また、日本との関係を扱った第7章「遅れてやってきた運命」、インド太平洋に対する認識とアプローチを論じた第8章「パシフィック・インディアン」も必読だ。
日印国交樹立70周年を迎えた節目の2022年に本書を世に送り出せたことをこの上なく光栄に感じるとともに、これを通じて日本のインド理解が大きく深まることを願ってやまない。
笠井亮平
【S・ジャイシャンカル『インド外交の流儀 先行き不透明な世界に向けた戦略』(白水社)所収「訳者あとがき」より】