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ムガル朝皇帝バーブルとフマーユーンに関する回想録『フマーユーン・ナーマ』の価値

記事:平凡社

歓談するバーブル(右)とその長男フマーユーン(左)。『フマーユーン・ナーマ』(平凡社東洋文庫)より転載
歓談するバーブル(右)とその長男フマーユーン(左)。『フマーユーン・ナーマ』(平凡社東洋文庫)より転載

2023年1月25日刊、平凡社東洋文庫『フマーユーン・ナーマ ムガル朝皇帝バーブルとフマーユーンに関する回想録』(グルバダン・ベギム著・間野英二訳注)
2023年1月25日刊、平凡社東洋文庫『フマーユーン・ナーマ ムガル朝皇帝バーブルとフマーユーンに関する回想録』(グルバダン・ベギム著・間野英二訳注)

『フマーユーン・ナーマ』の特徴と価値

 『フマーユーン・ナーマ』は、ムガル朝の帝室に属したイスラーム教徒の女性が著した父バーブルと兄フマーユーンに関する回想録として稀有の価値を持つ。

 当時の美辞・麗句を連ねた難解なペルシア語の文章に比べると、『フマーユーン・ナーマ』は極めて簡明なペルシア語で書かれている。これは父バーブルの簡明な文章に対する好みを受け継いだものといえる。バーブルは息子のフマーユーンに宛てた手紙の中で、「お前は文章に凝りたいといっていますが、そのために文意が不明瞭になっているのです。今後は凝らずに、わかりやすい明快な言葉を使って書きなさい。そうすればお前の苦労も少なくてすむし、読む者の苦労も少なくてすむはずです」(『バーブル・ナーマ3』246247ページ)と書いている。事実、『バーブル・ナーマ』は、極めて簡潔で明晰なチャガタイ語の文章で書かれている。

 『フマーユーン・ナーマ』第1章のバーブルに関する部分には、第1章注4、11、12、13、14、16、18、22、36、38、41、42、50、77などで指摘したように、しばしば誤った記述や正確さを欠く記述が見られる。これは、グルバダン・ベギム自身が、『フマーユーン・ナーマ』冒頭の「序」で、父バーブルの逝去時に彼女はまだ8歳で、「そのため記すべき事蹟は少ししか覚えていなかった」と記している通りである。したがってこれらの部分については『バーブル・ナーマ』の記述を参照する必要がある。

 しかし、バーブルの時代について、『バーブル・ナーマ』に見えない貴重な情報も多く含まれている。例を挙げると、次のごとくである。

 ①151011年の真冬のサマルカンド遠征の際、カーブルからバーブルに同道したフマーユーン(当時、2歳9カ月)をはじめ、ミフル・ジャハーン・ベギム、バルブル・ミールザー、マースーマ・ベギム、カームラーン・ミールザーといった幼い子供たちの一覧。家族を愛したバーブルは幼子たちをカーブルに残すことはできなかったのであろう。
 ②1520/21年、12/13歳のフマーユーンがカーブルからバダフシャーン(現アフガニスタンの東北部)の総督として赴任した際、両親であるバーブルとマーヒム・ベギムが、おそらくまだ若いフマーユーンを気遣い、バダフシャーンに赴き、そこに数日間滞在したという記述。
 ③1526年、パーニーパトの戦いの勝利ののち、カーブルにいた女性たちに与えられた贈り物のリスト、同時期のバーブルによる臣下のアサスへの巨大なアシュラフィー金貨の賜与、また、アーグラでの親族の女性たち96人に対する賜与の内容。
 ④1529年6月、バーブルの妃マーヒム・ベギムと娘グルバダン・ベギムのカーブルからアーグラへの到着とその直後の11日間の動静。マーヒム・ベギムとグルバダンの接近を知ったバーブルは、馬に鞍を付ける時間をも惜しんで徒歩で二人を出迎えに赴き、また、徒歩で二人を宮殿まで先導したという。
 ⑤同年9月ごろの、マーヒム・ベギム、グルバダン・ベギムらを伴ってのバーブルのドールプルへの旅行と、ドールプルにおける、巨大な一枚岩を掘削して造られた貯水池の完成についての報告。
 ⑥バーブルのスィークリー(現ファテフプル・スィークリー)への旅とその地でのバーブルの動静についての報告。
 ⑦バーブルの姉ハンザーダ・ベギムのカーブルからアーグラへの到着とバーブルのナウグラームまでの出迎えについての記述。
 ⑧バーブルが政治生活を引退してフマーユーンに位を譲りたいという望みを口にしたが、マーヒム・ベギムらの反対で翻意したという記述。
 ⑨グルバダン・ベギムの弟アルワル・ミールザーの死についての記述。
 ⑩瀕死のフマーユーンのためのバーブルの献身と、バーブルの死去時とその前後の諸状況についての記述。
 ⑪バーブルが、その死の直前、第四子のまだ少年であったヒンダルに会いたがっていたという記述。バーブルは臣下に「ヒンダル・ミールザーの背丈はどのくらいになったか。誰に似ているか」と繰り返し尋ねていたという。
 ⑫バーブルの死の直前における、グルバダン・ベギムの二人の姉、グルラング・ベギムとグルチフラ・ベギムの結婚についての記述、などである。

 グルバダン・ベギムの記述によって、バーブルの死後、しばらくその死が隠されていたことも知られる。

玉座のフマーユーン。『フマーユーン・ナーマ』(平凡社東洋文庫)より転載
玉座のフマーユーン。『フマーユーン・ナーマ』(平凡社東洋文庫)より転載

 第2章のフマーユーンに関する記述は、グルバダン・ベギムのかなり確かな記憶に基づいて書かれており、極めて貴重である。特に興味深い記述の例を挙げると、次のごとくである。

 ①フマーユーンの妃の一人、ミーヴァ・ジャーンの偽りの妊娠に関する記述。
 ②フマーユーンのチュナールからの凱旋を祝う祝宴についての記述。
 ③フマーユーンのティリスム宮(秘宮)完成を祝う祝宴についての記述。この祝宴に参列した高貴な女性たちの詳細なリスト、さらに、この宮殿の詳細な描写。
 ④ティリスム宮完成を祝う祝宴のあとに行われたミールザー・ヒンダルの結婚の祝宴と出席した女性たちのリスト。
 ⑤ティリスム宮完成を祝う祝宴およびミールザー・ヒンダルの結婚の祝宴の際の、出席者などからの呈上品の詳細なリスト。
 ⑥フマーユーンの訪問がないことについての、彼の若いころからの妃ベガ・ベギムの小言についての記述。
 ⑦フマーユーンとやがてアクバルを産むハミーダ・バーヌー・ベギム(当時、およそ14歳)との出会いと強引ともいうべき結婚までのいきさつに関する記述。ハミーダ・バーヌー・ベギムがフマーユーンとの結婚を望んでいなかったという記述。
 ⑧フマーユーンのサファヴィー朝領内亡命中の、シャー・タフマースプの姉妹であるスルターニム皇女によるハミーダ・バーヌー・ベギムの接待に関する記述。
 ⑨フマーユーンのサファヴィー朝領内亡命中に起こった高価なルビー盗難事件についての記述。
 ⑩カーブルでのアクバルの割礼の祝宴についての記述。
 ⑪ミールザー・スライマーンの妃に対する、ミールザー・カームラーンの横恋慕というゴシップの記述、などである。

 これらの中でも、種々の祝宴の際の女性の参列者の詳細なリストと彼女たちに与えられた贈り物の詳細な記述は、ほかでは知られない極めて貴重な記録というべきであろう。

 このように、バーブル時代やフマーユーン時代のムガル朝宮廷のハレムの関係者や親族である女性たちについての記述が極めて詳細であり、そこに、帝室に属する女性によって著された『フマーユーン・ナーマ』の最大の特徴と価値を見出すことができるであろう。

 また、フマーユーンのハミーダ・バーヌー・ベギムとの結婚に至る、横車ともいうべきいきさつや、カームラーンの人妻に対する横恋慕というゴシップの記述も、グルバダン・ベギムがこれら高貴な人物の身近な存在である妹であったからこそ書くことができた貴重なエピソードといえるであろう。このようなことは、一般人である他者ではおそらく書くことができなかったはずである。

 欠点を挙げるなら、年次の記載が極めて少ないことである。そのため、諸事件の年代については『アクバル・ナーマ』、『千年史』などの記載を参照する必要がある。また、年代が記されていても、第2章注245、248、285に記したように、修正すべき個所も見られる。とはいえ、このような欠点も、『フマーユーン・ナーマ』の価値を大きく損なうものとは思われない。

 なお、『フマーユーン・ナーマ』の記述が途中で失われているため、フマーユーンの事故死の際の状況などについてのグルバダン・ベギムの記述が残されていないのはまことに残念というべきである。

(平凡社東洋文庫『フマーユーン・ナーマ:ムガル朝皇帝バーブルとフマーユーンに関する回想録』「解題」より抜粋)

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