指導が「リスク」になる時代に教員たちはどう振る舞う? 『学校するからだ』矢野利裕×『在日韓国人になる』林晟一の"職員室"対談(後編)
記事:晶文社
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前編はこちら:「学校の問題」に現役教員は何を感じているのか?
――教育現場におけるハラスメント(パワハラ、セクハラ、アカハラ)について、取り沙汰されることが増えてきました。
矢野 細かい対策がさまざまな学校の現場で増えています。たとえば小さい部屋で男性教師と女子生徒が1対1になることは避けて、複数人や女性教員で対応するなり、必ずドアを開けておくなり。生徒の生活指導(生徒の学校生活や生活態度に対して、教員が指導を行うこと)のやりとりをリスク回避のために録音しておくべきだ、という議論も出ています。ただ、「生徒との会話をリスクと捉える」という流れが、僕は気にかかっていて……。
林 本当に難しい。生徒との関係は、踏み込むほどリスクは増えます。でも、そのリスクを負わないと、生徒にこちらの言葉を受け入れてもらえないこともある。生徒が「この先生はリスクを負ってるな」とわかってくれて初めて、すとんと納得してもらえるという教育的瞬間はたしかにあるんです。
矢野 「こいつ、踏み込んできたな」と生徒に感じ取られている気はしますね。逆もまた然りです。そうすると二人のあいだで緊張感が走る。そこで初めて対話が開始される。一方で僕は、教員という演技をしている意識がどこかであります。叱るときは「指導をする教員」の演技をしているかもしれない。そのあたりの本音と形式とあいだのコミュニケーションが興味深いと言えば興味深いです。
林 はい。「演技する精神」(山崎正和)は教員と切っても切れません。指導にはしばしば儀礼的な側面もありますし。「この指導を完了したら、ひとまず手打ちだ」といった暗黙の合意が、教員と生徒の間に生じうる。指導する側の責任意識、生徒に変わってほしいとの気持ち、ときに、指導するほどの悪事ではないのではという後ろめたさ……情動が目まぐるしく転回します。指導する教師が役割演技を引き受けるときはとまどいが付きものですが、それでも指導の責務から逃げるわけにはいきません。
矢野 教育の現場ではいま、生徒に対してだんだん距離をとり始めているかもしれません。というより、生徒とのある種の距離の取り方がガイドラインとして設計されている。もっとも、世間的にもそうするのがよいと思われているし、教員にとっても付き合いすぎると感情労働的な意味で疲弊しますから、正しい態度なのかもしれません。でもそれが一概にいいことだとは思っていない自分がいるんですね。もちろんリスクや感情労働の面では問題があるんだけど、もっと減らすべきは別の仕事であって、生徒との交流を減らしちゃいけないところなんじゃないか……と思っています。交流を減らすのではなくケアを増やしましょう、と。
――「生徒に踏み込む」というのは、たとえばどういうことでしょうか?
矢野 大事なのは「何を言うか」ではなくて、「こいつ、体張ってるな」と思われることではないか。言葉の内容はあとからついてきて、「この人が言ってることなら聞こう」と転換する瞬間がある。有機的な対話というか、コミュニケーションができる感じです。
林 そういう瞬間、はっきりとありますね。属人的な指導と言われればそれまでなんだけど、大人だって他人の個性を吟味しながら生きる以上、生徒にも、ある教員の指導は受け入れ、べつの教員の指導は受け入れる「フリをする」といった権利はあります。
矢野 林さんの『在日韓国人になる』で、在日コリアンの詩人・金時鐘(キムシジョン)さんのエピソードが紹介されていますよね。彼は1970年代、初めて日本の公立校の正規教員となった在日コリアンとして知られますが、最初の赴任あいさつでひとりの生徒から反発されてしまう。その反発の言葉は在日コリアンへのヘイトスピーチ的なものなんだけど、自分が知識人らしい話し方をしたから反発されたのだと金時鐘は考える。彼はそこで反省して、生徒と正面から向き合う日々が始まる……。その結果、最後には「ど根性」を生徒に認められる。そこに〈いる〉こと、向き合い続けることで、生徒とのコミュニケーションが深まったんです。ここは教員としてぐっときました。
林 あそこは金時鐘さんの体験記をもとにした部分ですが、今どきからすれば暑苦しいなぁと思われようと、書いておかなくちゃだめだと思った。反発した生徒は映画俳優のブルース・リーを敬愛するのですが、その背景もまた痛切です。教育という営みはつねに生徒と教師の交差点上にあることが、よくわかります。
ーー1970年代の教育現場も今の教育現場も、変わらない部分があると。
矢野 言い方は難しいんですが、ときどき「怒られたい」というメッセージを発している生徒がいるように感じます。意識的か無意識的か、こちらの気を引くように挑発をしてきて、実際に怒るとむしろ関係がよくなる。そういう経験を何度かしました。そのとき、「この生徒は、もしかして真正面から叱られたり諭されたりした経験がないのかもしれない」と思いました。ガイドライン化された関係では、そういう微細な交流が見出しにくい感じがします。もし本当に生徒に対して許容できる範囲が狭くなっているのだとすれば、それは単なる学校・教員の問題ではなくて、なんらかの社会の反映のように思えて気になります。
林 踏み込まれることで態度が変わった生徒が、しばしば、「わかってくれた先生の信頼を失いたくない」といった行動をとることがあって。そんなときこの仕事の重い責任を痛感します。それだけに、生徒に踏み込むリスクを背負うべき局面を、適切に見きわめる必要があります。早々と生徒を見限って、見捨てたりすることに比べれば、よほど難しいことなのですが。
ーー現在、教員の労働環境に関する問題提起がいたるところで行われています。教員自身の労働問題と、生徒と真剣に向き合うことは、バッティングする部分があるのではないでしょうか。
矢野 生徒の依存先が学校や教員だけになるとしたら、労働時間や感情労働の面でもよくない。でも、人間関係なしで社会に生きることはできないことも事実です。だとすれば、学校がそれを全面的に担う必要がないように社会全体で調整してバランスを取っていく――という結論に僕はなるんですよね。
林 その文脈で言えば、多くの生徒にとってのサードプレイス(第三の居場所)って、家庭、教室に続く「部室」(部活)だったりしますよね。僕は長らく運動部の顧問をしていますが、部活の地域移行の議論は歓迎できる半面、サードプレイスでの子どもたちの振る舞いを見守りたいとの思いもある。教室とはまったくちがう、意外な魅力が垣間見えますから。この前、校舎ではやんちゃな生徒が、大会直前の部活中にほかの部員のミスで大ケガしちゃったんです。でも歯を食いしばって痛みに耐えるんですよ。相手を責める言葉はひとつも吐かないで。
矢野 部活をめぐる課題は重大ですよね。僕自身、国語の模擬授業をやって採用されているのに、特に面接で実力を問われていない部活対応が仕事時間の半分を占めているのは、なんだか変だなって思う。だからと言って、生徒の居場所や人間関係に関する議論を抜いて、過剰労働だからもっと減らしましょう、生徒との関わりの部分も減らしましょう、何時以降は対応しないようにしましょう……と制度設計しても、あんまりうまくいく気はしない。もしかしたらそこは他の職種とは異なるかもしれません。
――あくまで生徒を主体に考えてらっしゃるんですね。
矢野 教員の労働量軽減については、絶対に生徒との兼ね合いで考えるべきだと思っています。また、日々の授業が中心にあるべきでしょう。良い授業をするためには授業準備や研究の時間の確保が必要です。もちろん、精神的にも健全でなきゃいけないでしょう。そのためには余計な仕事は減らさなきゃいけなくて、だからこそ、どうにか労働量を減らしましょう…と、目的と道筋をつねに確認しながら労働の問題を話したほうがいいと思っています。いろんな考え方があるし、結果的に労働時間を減らす結論になるのはいいけど、議論の中心部分は常に確認したくなっちゃう。
林 働き方改革の一環で、たとえば学校行事を減らすという議論はよく出ます。たしかに行事に関する教員の負担は大きい。それでも、生徒のための行事をやみくものにつぶして良しとすることは本末転倒でしょう。たとえば今年、コロナの影響で中止になっていた合唱コンを、3年ぶりに本格実施できました。高3生にとってはそれが最初で最後の本格的な合唱コンでした。「みんな」で「今」しか立てない十代の晴れ舞台は、確保しなきゃいけないと思います。晴れ舞台の日までにけんかを重ねる経験さえ、その子の人生にはさまざまな意味で重要な刻印となりますから。
矢野 労働問題は、結局人が増えるしかない。今あるリソースをどう分配するかというよりも、そもそもリソースを増やしてほしい……というのは、教育に携わっている人は誰もが思っているのではないでしょうか。社会全体でそういう気運が高まって欲しいです。
――最後に、お二人の本について伺わせてください。お互いの本を読んでどのように感じられましたか?
林 『学校するからだ』は、教員目線からの教育批評でありつつ、ノンフィクション的なエッセイ調で描かれているので、高校生でも読める。こういう、多くの人に開かれた教育批評は斬新でした。教育書の棚でも一般書の棚でも置かれるような本は珍しい。実を言うと、僕もこういうことをやりたいと思っていました(笑)。でも、やりたいと思うことと、それを形にすることの間には大きな隔たりがある。情緒に流れるでもなく、理性に振り切れるでもなく、その間(あわい)を行くところに、教員のリアルがうかがえます。
矢野 日々中高生と接していると、言語体系の問題を感じるんです。つまり、授業のために評論や研究論文をインプットして、その内容を中高生にアウトプットすると、「なんかちがうな」と思う。アカデミックな場で使われている概念や言葉を、議論の水準を下げずに中高生に伝えるのが難しいことは頻繁にある。たとえば「ポストコロニアリズムをめぐる議論」を伝えるときに、どういう言葉を選んで、どう自分の体験と結びつけて語るのか……は、日々模索です。自分で教育について書くときに、中高生にも伝わるスタイルにしたかった。そこで感銘を受けたのが、林さんが論壇誌『アステイオン 89号』に寄稿した「在日韓国人になる」という文章でした(書籍『在日韓国人になる』に発展)。林さんは「エッセイのような語り口で、自分の経験も結びつけた形で、伝わりにくいことを書く」ということをやっていた。だから「こういうことをやりたい」というのは、林さんの認識とは前後します(笑)。
――『学校するからだ』は教育批評、『在日韓国人になる』は生活者から見た戦後在日コリアン史。ジャンルは異なりますが、共通するのは「現場の目線」かつ、黒と白をはっきり言い切らないところだと感じました。
矢野 最初(前編)にもすこし話しましたが、教育現場には問題がいろいろとあるし、その答えを誰もはっきりと出せていない。僕が現場でからだを通して感じているリアリティが、世の中の教育に関する言説からこぼれ落ちているということをずっと思っています。そして学校に関する問題の多くは、議論の中心をずらさないように意識してバランスをとっていくことが必要だなと。
林 これまでの在日論は、日々を生きる者の視点から離れていきがちだったと思います。通称名のエピソードが典型ですが、在日の支援団体は通称名を悪しざまにあつかった。でも、その名前を使うほうが生きやすい人だっている。「名実」の「実」をとるのはそんな恥ずかしいことなのか。ややもすると「自分の生活が守れたらそれでいいのか」などと批判されるけれど、守るべき生活があるとするなら、それは歓迎すべきことかもしれない。歴史をもとに現在と未来を考えるとき、目線を低く下げるとかおこがましいことを言うつもりはありません。ただ、自分の中に備わった生活者のリアルは大事にしたほうがいいかなと思います。
――特にどんな方に著書を読んでもらいたいか教えてください。
矢野 高校生~大学生です。教育って、若者カルチャーとの食い合わせが悪い。だからこそ意識的に、「おっ」と思うような固有名詞を使うように意識しています。
林 僕も背伸びする高校生や大学生ですね。いちばん本が届きにくい世代なのですが。日本全国の多感なみなさんに届きますように、との気持ちが強いです。先日、ある大学のゼミで講読してくださり、先生が学生さんたちの読後感をまとめて届けてくださいました。その日、大学のある方角へ向け深々一礼しました。うそのような本当の話なんですが、心底嬉しかったんです。