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映画『福田村事件』のサブテキスト的一冊――森達也『虐殺のスイッチ』

記事:筑摩書房

熱狂し、集団は変異する。普通の人々が大量虐殺の歯車になるメカニズムを考える
熱狂し、集団は変異する。普通の人々が大量虐殺の歯車になるメカニズムを考える

なぜ虐殺について、集団が集団を殺戮する現象について、考え続けているのか

 この原稿を書いている二〇二三年五月、僕にとって初めての劇映画作品となる『福田村事件』の試写が始まる。いろいろ悔やむことはあるけれど、出来不出来はともかくとして今の僕の思いやテーマを、できるかぎり凝縮した作品にはなったとは思う。
 この映画の背景は、今からちょうど一〇〇年前の関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺だ。未曾有の災害と流言飛語にパニックになりながら、多くの市民が朝鮮人狩りに狂奔した。殺された人の数は公式には六〇〇〇人前後。でも間違いなくもっと多い。映画を撮りながら、自分がもしもその場にいたらと何度も想像した。殺される側ではない。殺す側にいる自分だ。
 ……などと書き始めると、少し危ない人だと思われるだろうか。でも事実だ。ずっと虐殺が頭から離れない。だからやっぱり考える。なぜ自分は虐殺について、集団が集団を殺戮する現象について、憑かれたように考え続けているのか。

善良な隣人が、大量殺人の歯車になった
善良な隣人が、大量殺人の歯車になった

 考え始めたきっかけはわかっている。オウム真理教の信者たちを被写体にしたドキュメンタリー映画『A』を撮影したことだ。
 地下鉄サリン事件が発生した一九九五年三月二〇日以降、日本社会はパニック状態になった。テレビは早朝から夜中までオウム真理教の特番ばかりで、新聞一面はオウム関連の記事で埋め尽くされた。そのすべてに共通する前提は、彼らは邪悪で凶暴で危険な殺人集団であることだ。言ってみればオウムは、戦後初めて国内に出現した絶対悪であり、社会に牙を剥いた公共敵だ。叩くことに容赦は不要だ。メディアも社会も治安権力や行政もオウム叩き一色になり、この状態が一年以上も続いた。
 もちろん、危険な集団であるとの認識は間違っていない。実際に彼らは多くの人を殺傷したし、もっと多くの人を殺傷しようともしていた。でも事件には加担していない一般信者の子供たちの就学を拒否したりあからさまな別件逮捕を多くの人の目の前で遂行したりする状況は、完全に一線を越えていた。明らかな人権侵害だ。ところが異を唱える人はほとんどいない。行政はもちろん、市井の人権関連団体のほとんども沈黙していた。

なぜ純朴で穏やかな人たちが、多くの人を殺したのか。

 この時期に僕はテレビディレクターだった。信者たちを被写体にするテレビドキュメンタリーを企ててオウム施設内に入ったとき、屈託のない彼らの笑顔と穏やかな応対に出会って混乱した。邪悪で凶暴などの要素は欠片(かけら)もない。だから撮りながら考え続けた。なぜこれほどに純朴で穏やかな人たちが、多くの人を殺そうとしたのか。殺したのか。
 もちろん僕以外にも記者やディレクターなど多くのメディア関係者が、このときはオウム信者に接していた。彼らも驚いたはずだ。でもその後も記事や番組など彼らのアウトプットは変わらない。凶暴で冷酷な集団であることは前提のままだ。なぜなら社会がその情報を求めるからだ。メディアはこれに抗わない。もしもこの時期にオウム信者一人ひとりは善良で穏やかですなどとアナウンスしたり記事に書いたりしたら、そのテレビ局や新聞社はオウムを擁護するのかと罵声と批判の集中砲火を浴びていただろう。視聴率や部数は急激に下落するし、スポンサーは降りるかもしれない。会社としてメリットは何一つないのだ。
 ならばなぜ僕はこの回路から離脱できたのか。

 その理由のひとつは、オウム信者たちを被写体にしたドキュメンタリーを長期にわたって撮り続けたこと。結果としてはこの時期、僕以外にドキュメンタリーという発想をした人はいなかった。そしてもうひとつの理由は、撮影開始直後に番組制作会社から解雇されて一人になったことだ。
 信者たちが居住するオウム施設内でカメラを手に一人でうろついているのだから、一般市民とは言い難い。でもメディアにも居場所はない。もちろんオウムに入信することもありえない。
 後ろ盾がまったくない。仲間もいない。徹底的に一人だった。施設内でカメラを回しながら、自問自答の時間が続く。その主語は常に一人称単数だ。テレビがナレーションなどでよく使う「我々」ではない。だから述語が変わる。変わった述語が自分にフィードバックする。視点が変わる。ならば世界は変わる。これまで見えなかった景色が見えてくる。
 テレビから排除されたテレビディレクターが撮る映像に、どのような意味があるのか。これは発表できるのか。この先自分はどんな人生を送るのか。何もわからない。でも撮影を止めることもできない。撮りながら自分の内側で何かが変わりつつあるような感覚があった。何かのスイッチが入ったのか。あるいは何かのポーズが解除されたのか。いずれにしてもその感覚は、その後も今に至るまでずっと、僕の内側で駆動し続けている。
 なぜ人は優しいままで人を大量に殺せるのか。
 結果として社会とメディアは、この煩悶を選択しなかった。凶暴凶悪だから人を殺したという単純な構図にオウム事件を押し込めた。確かにそれはわかりやすい。でも事実とは違う。

虐殺を起こさないために、その理由とメカニズムについて学んで記憶しなくてはならない

 その後に僕はアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所を訪ねた。同じポーランドでポーランド人がユダヤ人を大量虐殺したイェドバブネ村にも行った。
 朝鮮半島の三八度線に行った。イムジン川の向こうには、畑を耕す北朝鮮の農夫が見える。その後に平壌に一週間ほど滞在した。
 沖縄のガマを訪ね歩いた。関東大震災時の朝鮮人虐殺の慰霊祭に参加した。八月は毎年のように広島と長崎に行く。再建中のアメリカ同時多発テロ跡地には何度か足を運んだ。イラク戦争でPTSDになった元米軍兵士に話を聞いた。
 ヨルダンのパレスチナ難民キャンプでホームステイした。自国の軍隊が数万人の島民を殺害した韓国の済州島で、多くの展示や傷跡を見た。ザクセンハウゼンなどドイツ国内に残されているいくつかの強制収容所を訪ね、ナチス幹部たちが集まってユダヤ人への最終計画を決定したヴァンゼー邸宅にも行った。カンボジアのキリングフィールドとS21(政治犯収容所)に行ったときに思ったことは、この本の冒頭に記している。

 ちょうどこの時期、僕は東京拘置所に通い始めていた。死刑判決を受けた六人の元オウム信者に面会するために。男たちはやっぱり穏やかだった。善良で優しかった。
 でも彼らが多くの人を殺害したことも確かだ。
 何度でも書く。凶悪で残虐な人たちが善良な人たちを殺すのではない。普通の人が普通の人を殺すのだ。世界はそんな歴史に溢れている。ならば知らなくてはならない。その理由とメカニズムについて。スイッチの機序について。学んで記憶しなくてはならない。そんな事態を何度も起こさないために。

森達也『虐殺のスイッチ』(ちくま文庫)書影
森達也『虐殺のスイッチ』(ちくま文庫)書影

 でも僕たちが暮らすこの国は、記憶する力が絶望的なほどに弱い。むしろ忌避している。殺す側は邪悪で冷酷。その思いが強いからこそ、過去に自分たちがアジアに対して加害した歴史を躍起になって否定しようとする。被害の側に過剰に感情移入するからこそ、加害の側をより強く叩こうとする。加害と被害は反転しながら連鎖することに実感を持たない。
 僕が面会と手紙のやりとりを続けた六人のオウム信者はもういない。みな処刑された。人を殺したから殺される。なぜなら悪人だから。生きる価値がないから。それでよいのか。そんな社会で本当によいのか。

 だから終わらせてはいけない。忘れないために。善良な人が善良な人を殺す。その理由とメカニズムについて考えねばならない。忘れたらまた同じことをくりかえす。過去に起きた戦争や虐殺よりも恐ろしいことがひとつだけある。
 過去に起きた戦争や虐殺を忘却することだ。
 これはまえがきなのだから、あまり欲張らないほうがいい。でも少なくともこれだけはあなたに伝えたい。加害する側の悲しみを知ってほしい。もちろん被害の側の絶望と恐怖も知ってほしい。そう願いながらこの本を書いた。だってどれほど悔やんでも、もう元には戻せない。今さらなかったことにはできないのだ。僕のこの願いが、少しでもあなたに届いたら嬉しい。

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