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森達也『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』書評 当事者の代弁に隠れている欺瞞

評者: 佐々木敦 / 朝⽇新聞掲載:2013年10月06日
「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい 正義という共同幻想がもたらす本当の危機 著者:森 達也 出版社:ダイヤモンド社 ジャンル:社会・時事・政治・行政

ISBN: 9784478006832
発売⽇:
サイズ: 19cm/380p

「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―正義という共同幻想がもたらす本当の危機 [著]森達也

 とても長い、しかも問いかけの形を採った題名。その言葉の響きは挑発的でさえある。では、いったい何を問おうというのか。BS放送の対談番組で死刑廃止論を展開した際に(森氏の死刑論は『死刑』に詳しい)一部の視聴者から寄せられた批判の多くが、「死刑制度がある理由は被害者遺族のため」という論調であったことに対して、著者はこう問う。「もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのですか」。詭弁(きべん)のように聞こえるかもしれないが、続けて読んでいくと、著者がこだわっているのが、いわゆる「当事者」性という問題であることがわかってくる。「被害者遺族の思いを想像することは大切だ。でももっと大切なことは、自分の想像など遺族の思いには絶対に及ばないと気づくことだ」と著者は続ける。もしも著者の身内が誰かに殺されたら、彼は犯人を憎み、死刑にならないなら自らの手で殺したいと思うかもしれない。それは当然だ。なぜならそのとき自分は「当事者」になっているのだから、と率直な感情を記した上で、著者はしかし、こう続ける。「でも今は当事者ではない」
 2007年に開始され、現在も連載の続いているコラムを加筆修正し、順序も入れ替えて一冊にまとめたものである。死刑制度、領土問題、戦争責任、レイシズム、9・11以後、原発事故、等々、扱われている事象は多岐にわたっているが、著者の姿勢は一貫している。副題に「正義という共同幻想」という言葉があるが、これを裏返すなら、著者の目には「共同幻想としての正義」と映る空気の蔓延(まんえん)に(まさに「空気が読めない」と誹(そし)られることを覚悟で)ストップをかけ、もう少しだけ各々(おのおの)が自分の頭で考えてみてはどうかと提言すること。死刑制度に限らず、幾つかの問題に関して著者はかなり明確な意見を持っているが、それと同時に常に悩んでもいる、悩み続けている。正義とは正答の別名であるとするなら、一足飛びに答えを見いだそうとせず、その場に踏みとどまって考えてみることの意味と価値を、この本は訴えている。
 当事者ではない者が当事者を代弁してみせる行為の内には、まぎれもない善意と同時に、一種の無自覚な欺瞞(ぎまん)が隠れていることがある。私たちは、自分(たち)とは絶対的に無関係な他人、文字通りの「他者」たちの悲嘆や絶望に共感する術は、実のところは、ない。だがそれでも、だから最初から諦めるとか、どうでもいいということではなく、それでも、それだからこそ、他者を思いやる能力が必要なのではないか。その能力を「想像力」と私は呼びたい。森達也は貴重な想像力の持ち主だと思う。
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 ダイヤモンド社・1680円/もり・たつや 56年生まれ。映画監督、作家。映画作品に、オウム真理教を取り上げたドキュメンタリー「A」「A2」など。著書の『A3』で講談社ノンフィクション賞。