「人種差別問題」の歴史とその本質[後篇]『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ』
記事:白水社
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もう何年も前のことになるが、私は大学院に入るまでジェイムズ・ボールドウィンを本気で読まなかった。プリンストンに入ってからも初めはボールドウィンよりもラルフ・エリスンのほうに興味があった。『見えない人間』を書いたエリスンは米国における人種問題を洗練された方法で取り上げ、肥沃な土壌を後に残した。エリスンのノンフィクションのエッセイは哲学的、文学的にどこまでも精密で、私は白人の同級生たちの居心地の悪さを気にせずに読むことができた。対してボールドウィンは、少なくとも当時の私にとっては、一帯を焼き払ってしまうように思われた。真実を語るのだが、ページからは怒りが滴る。『次は火だ』を読んだときには、ボールドウィンの怒りと、愛についての語りとの折り合いをつけることができなかった。それはまるでドクター・キングにヘンリー・ジェイムズにマルコムXにフロイトが合わさったかのようだった。ボールドウィンは内面に立ち入ってきすぎた。これに対しエリスンはその品のある言葉遣いと力強い洞察の陰に隠れたままだった。仮面にすき間がないのである。ボールドウィンのエッセイは、読むと自分の内面に向き合ってそこにあるどんな痛みにも直面することを強いられるのだが、私はそれがしたくなかった。自分の痛みを哲学的にどう処理すればいいかなんてなおさらわからなかった。それに、これがいちばん重要だったのだが、白人の同級生たちと一緒にボールドウィンを読むと、ボールドウィンが彼らをどんな気持ちにさせるかと折り合いをつけながら読まないわけにいかなかったのだ。
【Ralph Ellison documentary】
それで私はボールドウィンを敬遠した。同級生たちはボールドウィンをテーマに博士論文を書き、そのうちの一つは重要な学術書になった。私がためらっていたのは、ボールドウィンを思考に──自分の中に──入れたら最後、世界について何か述べるための前提条件として自分自身を正直に見つめることを強いられるのをわかっていたからである。ようやくボールドウィンを本気で読む勇気が出て、彼の作品を通じて自分の中で起きていることと、自分の国で目にすることを表現する考え方と言語を見つけた。
長年にわたるジミーとの関わり合いは私にとって自己発見の険しい道程でもあった。ジミーの言葉を読み、教えることでむしろ自分自身のほうを向き、自分の傷に立ち返る、つまり頭の中にいる父親の高圧的でいら立った存在を理解しなければならなくなった。子供の頃は父が怖くてたまらなかった。にらまれただけで身体が凍りつき、声の調子を聞いただけで泣き出した。私は父の憤怒が自分の中につかえていること、なぜ自分が十六歳で実家を出て大学に行ったのか(実際には家出だった)、父からただ「愛しているよ」という言葉を聞きたかっただけの無力な子供を守るために感情を堰き止めていたことを、自分にできる限りだが、理解しなければならなかった。ジミーのエッセイは読み手に、世界の現状について意見を言う前にまずある種の誠実さを持って自分に向き合うことを要求する。噓はさらなる噓を生み出すのだ、とジミーはいつも言っていた。私たちの内なる生き方と、おかしな理由で、白人であれば他の人よりも重要であると信じる国のひどいありさまとの関係を認識するべきだとジミーは強く言っていた。私たちがもっとも私的な局面で自分をどう確立させるかが、米国について理解することなのだ。この二つには密接な関連がある。国そのものが、私たち個人を動かす恐怖を反映しているからである。
その意味では、初めの頃に私がボールドウィンを、単に自分のことを書くエッセイストと考えていたのは誤りだった。たしかに、自伝的な記述はボールドウィンのノンフィクションの中心にある。しかしその核心では、ボールドウィンはアメリカの謎を解こうとしていたのである。
あるところが、これほど自由であると同時に、
これほどがんじがらめで、
いつもそこにあるが、けっして見つからない
ボールドウィンは、アメリカというプロジェクトを構成する言い逃れ、否定、愛情、憎しみの複雑な束の全体を把握し、新しい、それまでとは異なる人間になるために進むべき道を示そうとした。
そうなると、ジミーを読むには自分の痛みに向き合うだけでは到底足りない。それは骨の折れる作業である。ジミーの言及していることを突き止め(なぜそこでヘンリー・ジェイムズ、ラルフ・ウォルドー・エマソン、マルセル・プルースト、ブルーズなどを引き合いに出しているのかを理解し)、ジミーの言葉遣い(どのように欽定訳聖書に向き合い、シェイクスピアに助けを見いだし、ブラック・イングリッシュを楽しんでいたか)を感じ取り、幅広い作品の全体からジミーの洞察を探し出す。七〇〇〇ページ近くもある作品から。ついに「ジミーと向き合う」ことに決めた大学院生時代の運命のあの日以来、私はジェイムズ・ボールドウィンを熱心に読んできた。この三〇年間で学んだのは、ボールドウィンが自分の目で見たことを他の人にわかるように表現したことは今でも私たちに訴えかけてくるということである。ボールドウィンのアメリカ理解と、アメリカの矛盾や失敗についてのボールドウィン独特の洞察は時を超えて残り、アメリカをあらためて見直す視点を与えてくれる。
しかし私が思うに、ボールドウィンを一方向にだけ読むという罠にはまってしまってはボールドウィンが言っていることを把握することはできない。ボールドウィン自身も彼が証言したことも、一九六三年に作家として花を咲かせ一九七二年には衰えていたという使い古された描写では到底つかみきれない。ボールドウィンの作品は常に互いに折り重なっている。初期の表現が後年に取り上げられ、ボールドウィンが何を見たり経験したりしたかによって強調される点が移動する。以前の考えを捨てて新しい考えを取り上げることはめったにない。そうではなく、新たな経験によって以前の考えに別の角度から光を当てるのである。
たとえば『次は火だ』と『巷に名もなく』を並べて読むと、ジョン・コルトレーンの古典的アルバム『至上の愛』パート3の「追求」を聴くのと似ているように感じる。コルトレーンが同じ音を順に入れ替え、異なる音色の構成を使いながら一心不乱に悟りを追求するのを聴いていると、これ以上ないほどの不協和音のソロの部分でも同じものを何度も繰り返して演奏しているような気がしてくる。私にとって、ボールドウィンの最初から最後までの作品を読んでも同じ感じを受ける。そこでは世界の中での根本から異なるあり方が激しく追求される。その世界には「ニガー」と彼らを必要とする白人はもはや存在しない。
本書は今の時代におけるこの追求を取り上げる。ボールドウィンとともに考え、トランプ主義のかたちをとる、人種について知らぬ間に浸透している見方が「私たちの国を成し遂げる」努力を妨げ続けている状況を問いただすことをめざす。はっきりさせておきたいのは、ボールドウィンとともに考えるというのは彼の考えをまねたり複製したりするのではないということである。そうではなく、ボールドウィンの時代を暗くした、現代にも取り憑いている歴史の亡霊と格闘し、証言するボールドウィンに記憶が残した爪痕を明らかにし、当時も今も裏切りによってもたらされるトラウマに向き合い、戦いを続けるために必要な信念を奮い起こすことの圧倒的な難しさを認めるのである。だから本書はあちこち動き回る。過去のほうを指し示し、急に現在に戻り、ボールドウィンの経歴やエッセイの精読を活用し、現在の苦境についての私の考察で終わる。我慢、我慢。このような本はこれまでとは異なる書き方をしなければならない。単に政治についての解説や哲学的な主張であるだけでなく、私の怒りや脆さ(私の情熱とも言える)が丸見えになるような書き方である。この本自体が、その後の時代における必死の訴えだからである。
結局、今日これほど多くの人がアメリカの悪夢の現在とるかたちを理解しようとしてボールドウィンに手を伸ばすのは道理にかなっていると思うが、私から見るとその人たちはボールドウィンの残してくれたものの一部をつかんでいるだけである。ボールドウィンの憤怒に囲いをして後期の作品を置き去りにするのはいけない。ジミーは、ロナルド・レーガンの当選に至ったあの時期に何かを見た。そしてアメリカが従来と異なる選択をしなければ陥るであろう事態に私たちが耐えられるように必死に備えてくれようとした。ジミーは遠くの地平線にドナルド・トランプ的な何かを見たのだと思う。そしてどんなに憤慨しているように見えても、愛をもって私たちに書いてくれた。不協和音のようにしか聞こえなくても同じ音を演奏し続けたのである。
【Begin Again: James Baldwin's America And Its Urgent Lessons For Our Own】
アメリカという国の理念はまさに窮地に陥っている。アメリカ人は、自らの美徳を確実にして自らの悪徳から身を守る物語を作り上げてきた。しかし今日、私たちは自分たちの正体の醜さに直面している──私たちのより邪悪な面が君臨しているのである。その醜さはドナルド・トランプや、殺人を犯す警官や、ひどいことを大声で叫ぶ人種差別主義者にとどまらない。それは鼻汁のついたシャツに汚れたズボンをはいた子供たちが檻の中からこちらをにらんでいる様子であり、知りもしない二歳児の世話をさせられている十四歳の少女たちである。明かりの消えない部屋に寝かされた睡眠不足の赤ん坊たちが、アメリカなる理念に対する信念だけを頼りにすべてを賭けてここに来た家族を求めて泣いている。それはまた、国境の川岸に打ち上げられ、うつ伏せになったオスカル・アルベルト・マルティネス・ラミレスと二十三カ月の娘である。
しかしながら、アメリカなる理念の核心にある偽りを明らかにすることは、それとは異なる、よりよい物語を作る機会をもたらしもする。過去を掘り残骸を調べ、何が私たちをこのようにしたのかを突き止めるか、少なくとも答えをひと目見るチャンスをくれる。ボールドウィンは死ぬまで、私たちは異なる物語をめざすべきだと言い続けた。私たちは自分たちについて真実を語るべきである、と常に言っていた。そうすれば新たな可能性に解き放たれるのだ。別の物語を作ろうとのこの呼びかけはある意味で、私がボールドウィンの生涯と作品の瓦礫と残骸の中を探し回るなかで自分自身の揺らいだ信念に対して見つけた答えでもあった。最後の小説『頭のすぐ上で(Just Above My Head)』でボールドウィンは、その後の時代のさなかで生き延び戦い続ける力を奮い起こすための秘訣を示した。
その夢が打ち砕かれ、あれだけの愛と苦労が無駄だったように思えたとき、私たちはちりぢりになった。……私たちは自分たちがかつてどこにいて、何をしようとし、周りの誰がくじけ、気が狂い、死に、あるいは殺されたかを知っていた。
すべてが失われたわけではない。責任は失われることはなく、放棄されることしかできない。放棄を拒めば、もう一度始めることができる。
【エディ・S・グロード・ジュニア『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ 「もう一度始める」ための手引き』所収「はじめに──ジミーと考える」より】