マルクスは哲学を否定したのか? 『マルクスの名言力』より 田上孝一
記事:晶文社
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哲学者たちは世界を様々に解釈してきただけだが、大切なのはそれを変えることである。『フォイエルバッハ・テーゼ』
本書は膨大なマルクスの文章の中から、彼の思想的核心を示す言葉を切り取って解説することで読者をマルクスに誘おうとする入門書であるが、取り上げる基準はあくまで理論的に重要かどうかで、世間的に有名かどうかは二義的である。そのため『資本論』の冒頭言のように、研究者や既にマルクスに親しんでいる読者には馴染み深い言葉を取り上げはするものの、マルクスを全然知らない人でもどこかで聞いたことがあるというまでに有名な言葉は、これが初出となる。
この言葉こそ「宗教は民衆のアヘンである」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)と並んで、間違いなく最も有名なマルクスの言葉であり、誰でも一度は聞いたことがある言葉でもあるだろう。
宗教は民衆のアヘンだというマルクスの言葉の真意については『99%のためのマルクス入門』で詳しく説明してあるのでここでは繰り返さないが、この言葉も「民衆のアヘン」同様に、その真意が歪められて広がっている代表例となっている。
何といっても、この言葉を予備知識なくそれだけ読めば、解釈と実践が排他的に対置され、前者を否定し後者を受け入れるべきだという話に見えるからである。加えて、そういう無価値な解釈をやっていたのが哲学者ということで、マルクスは哲学という学問それ自体も否定しているかのようにも受け止められるだろう。
そうなるとここでマルクスは、世界をあれこれと解釈する理論的活動などにうつつを抜かさずに、とにかく世界を変えるための革命的実践に献身することこそが大事なのだと訴えているように見える。
実際にマルクス以降のマルクス主義ではまさにこの言葉は実際的な革命活動へのコミットメントの大切さを訴えるためのスローガンとして用いられてきたし、今もそうしたスローガンとして受け止めるのが一般的な理解となっている。
確かに実践は大事であり、理論と実践を結び付けるのは大切だ。しかしこの言葉はそうした理解よりもむしろ、実践は理論よりも重要だというように、理論と実践に優劣を付けているように受け止められてきた。
しかしこうした通俗的理解は不適切なだけではなく、有害でもある。こうした「実践優位主義」は、理論を軽視する反知性主義に直結しているからだ。例えば毛沢東主義にはこうした反知性主義的要素が色濃く、文化大革命はその負の側面が全面的に発揮された惨劇だった。
こうした反知性主義的解釈では理論の地位は低く見積もられ、実践の合間についでにやっておけばいいというような付属物に引き下げられる。
ここまでくれば、こうした通俗的理解がマルクスの真意を曲解していることは自明だろう。なぜならもしマルクスが理論を実践の付属物のように考えていたなら、彼は『資本論』のような重厚無比な理論書を物したりはしなかっただろうからだ。
実際にはむしろマルクスは、理論を実践の付属物と考えるような同時代人たちと、常に鋭く対立しあってきた。
現実問題として、社会主義的な革命運動を主導する側も実際に運動を担う多数も主要には労働者であり、大学教員や職業的な知識人は少数だった。今と異なり識字率も低く、社会主義の高度な理論を理解できる労働者は少数の例外に過ぎなかった。大半の労働者からすれば、複雑な社会科学理論よりも分かり易いスローガンのほうが、深く心に沁み込むことが多かったはずである。
実際マルクスの先行者でドイツ最初の共産主義者と言われるヴィルヘルム・ヴァイトリングは、複雑な理論ではなく、キリスト教道徳に基づく分かり易いメッセージで労働者の心をつかみ得た。こうしたヴァイトリングからすればマルクスは、不必要な思弁にふける空論家の類ということになろう。このような伝道師然としたヴァイトリングに対してマルクスが会議の席上で、「無知が人の役に立ったことがあるか!」と怒号したというエピソードは有名である。
実はこうした対立はヴァイトリングに限ったことではなく、プルードンや特にバクーニンのような、マルクスにとってもっと大きな思想的ライバルとの関係においても基調をなすものだった。
プルードンはヴァイトリングと異なり、独自の経済理論の構築を目指した点では単なる活動家やアジテーターではなく、マルクス同様の理論家でもあった。しかしプルードンの経済理論は所詮マルクスとは比べ物にならない。まともな読解力の持ち主ならば、プルードンの経済学上の主著である『貧困の哲学』(1846年)が『資本論』よりも優れて経済現象の本質を説明しているなどとは見なさないだろう。
バクーニンに至ってはプルードンのように本格的な社会科学理論を構築しようという志自体がなく、その著作の基本線は、そうした社会システムがどのようなもので、どうすればそれが実現できるかという具体像を示すことなく、現行国家の即時破壊によって直ちに一切の支配の存在しない絶対的自由を実現できるというような、無責任な夢想を繰り返すに過ぎなかった。
こうしてマルクスの思想的ライバルとされた面々は実際には、理論的な面ではマルクスのまともな敵ではなかったのである。
ところが実際には、より精緻な議論をしていたマルクスが、だからと言って粗雑なアジテーションしかできなかったライバルたちに常に勝利していたとは限らず、むしろ後塵を拝することも多かった。正しいことを言った者が必ず勝つとは限らないのだ。
もっともマルクスにしても、労働者が彼の理論を簡単に理解できるとは考えておらず、啓蒙的な講演や著作活動によって自己の思想の核心を平易に労働者に伝えようと腐心していた。だからといって彼は、理論は伝わるような平易なものでありさえすればいいのだという妥協はしなかった。理論は活動の手段であるが、活動に役立てさえすればその内容の真実はどうでもいいということではない。むしろ理論がそれ自体として、適切に社会や歴史の実相を説明できるからこそ、それが実践の指標となると考えたのである。だからマルクスは『資本論』という、マルクスのように革命運動に従事することなく大学で講義するだけの職業学者の誰もが到達できないような高みに登り得たのである。
従ってマルクスからすれば「解釈すること」はどうでもいいような手段ではなく、それ自体が目的として追求されるものだし、実際にマルクスの生涯の主要部分は資本主義経済現象への解釈に費やされたのである。
こうしてテーゼの文言はその表面的な印象とは異なり、理論を軽視し実践を重視するという反知性主義宣言ではない。
しかしもう一点、このテーゼには今度は哲学という学問への軽視が見られるのではないか、ここでマルクスは哲学を否定しているのではないかというようにも見える。この点はどうなのか?
そもそもこの第十一テーゼを含む「フォイエルバッハ(に関する)テーゼ」自体が、人間と社会の本質に対する哲学的洞察であり、一つの短い哲学論文となっている。哲学を否定する者が典型的に哲学的な議論を展開するのは滑稽なので、この事実だけでもマルクスが哲学それ自体を否定してないことは自明だが、しかしマルクスが哲学を否定しているという謬見は今でも根強く繰り返されている。
その最大の根拠とされるのが、『経済学批判』の「序言」にあるいわゆる「唯物史観の定式」で、この「フォイエルバッハ・テーゼ」直後に書かれた『ドイツ・イデオロギー』にて「哲学的意識を清算」したとされることである。しかし、旧著(『マルクス哲学入門』社会評論社、2018年、『マルクス疎外論の諸相』時潮社、2013年)で既に指摘した通りに、これは解釈者のバイアスによる誤読である。日本語で「哲学的意識」といえば大げさな話に聞こえるが、この箇所のドイツ語を普通に訳せば「我々のこれまでの哲学的良心の清算」になる。清算したのは哲学一般ではなく我々、つまりマルクスとエンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』まで共有していた哲学的良心なのだ。
では哲学的良心とは何かだが、これは批判対象であるフォイエルバッハやシュティルナーのようなドイツ・イデオローグとそれまでのマルクスが共有していた哲学的な議論の作法になる。
かつてのマルクスもヘーゲル主義者だったのであり、マルクスと同じくヘーゲル主義者だったフォイエルバッハらヘーゲル左派と共通する哲学的な言葉遣いがここでいう哲学的良心の具体的内容である。その代表例は「類的本質」といった言葉である。
「人間の類的本質」というような典型的に哲学的な表現は『経済学・哲学草稿』では多用されるが、『ドイツ・イデオロギー』以降は自粛される。論敵と同じ表現を使うことにより、論敵と同じ理論水準であるような浅薄な読解をする批判者が後を絶たなかったからである。
実際『ドイツ・イデオロギー』では、そこで論じられている理論的核心が既にマルクスの論考が収められた『独仏年誌』(1844年)で述べられていたという但し書きが繰り返されている。ここで『独仏年誌』というのはそれが実際に公刊された著作だからであり、ドイツ・イデオローグたちが実際に読み得たからである。後世の我々からすれば『経済学・哲学草稿』とそこで展開された疎外論を代入して理解しないといけない。どちらにせよ、ヘーゲルを継承するような哲学的な論文形式であるだけでその理論水準を低く見積もられてしまうことに、マルクスは強く注意するようになったということである。
こうした表面的読解による誤読への恐れはマルクスに終生付きまとった。ヘーゲル左派的論理と文体による社会主義論の展開である「真正社会主義」は、『資本論』の時点では既に過去の遺物になっていたが、プルードン主義をはじめとして哲学的ジャーゴンを経済学理論にまぶすような作風は、相変わらず盛んだったからである。マルクスには社会科学的分析の不足を哲学的思弁でごまかすような論者と常に混同される余地があり続けた。そのためマルクスは、『ドイツ・イデオロギー』以降に公刊された著作では哲学用語を用いることに慎重になったのである。
ところがマルクス自身は哲学を捨て去ったどころか、哲学用語を多用して哲学的な議論をすること自体も放棄していなかった。その証拠が『経済学批判要綱』をはじめとする『資本論』に向けての準備草稿である。『経済学批判』と『資本論』第一巻という、草稿を用いて実際に出版できた著書では哲学用語の使用や哲学的な思弁は抑制的になっているが、草稿では少しも抑制されずに、「疎外」のような典型的に哲学的な表現が多用されている。
これが意味するのは、マルクスは哲学一般を批判しているわけでも哲学的思考を放棄したわけでもないということである。ただ彼は、そうした理論を精緻化し易い哲学的作法がそのまま読み手に伝わるだろうという「良心的な考え」を、ドイツ・イデオローグとの論争の中で残念ながら捨てざるを得ないと痛感したということである。
これが「哲学的意識の清算」の実相である。それは哲学一般の放棄でも何でもなく、理論家としての良心から行っていた哲学的な言葉遣いがかえって誤解を与えるので、そうした哲学的用語、それはドイツ・イデオローグやプルードン主義者にはマルクスのように厳密な概念としてではなく「空語」として用いられていたのだが、マルクス自身もそうした空語を使っていると思われないために、哲学的な言葉遣いをあくまで表向きに禁欲するようになったということに過ぎない。
事実問題として、マルクスが学問としての哲学そのものを否定したり、哲学を嫌悪したという直接的な文言も状況証拠もどこにもない。あるのはむしろ逆の事例である。
マルクスは若き日に古代原子論研究で「哲学博士」になったが、マルクスはこの呼称を終生愛用したし、周囲から哲学博士と呼ばれるだけではなく、哲学者と見なされることを拒否した形跡もない。勿論マルクスの主戦場は経済学なので、経済分析をないがしろにするような類と混同される意味で「哲学者」と呼ばれることは許さなかったはずだが、アダム・スミスが経済学者であるのみならず『道徳感情論』の著者として哲学者であるように、当時の慣例通りに経済学研究者である自分が広い意味で哲学者と呼ばれることをむしろ喜んでいた節が濃厚である。
また学問としての狭義の哲学に対しても、マルクスはこれを捨て去り嫌悪するどころではなかった。
1857年から58年といえばまさに『経済学批判要綱』の時期であり、マルクスが哲学論文を専らにしていた1843年頃とは幾星霜も経ているが、この時期にあってもマルクスが学問としての哲学を嫌悪してなどいないことが、丁度この時に出されたフェルディナント・ラッサールの大著『エフェソスの暗き人ヘラクレイトスの哲学』(1858年)に対するマルクスの態度から明らかになる。
ラッサールの本はヘーゲル主義の立場からする大部の哲学史研究であり、ヘラクレイトスに対する細かな文献解釈など、哲学に関心のない者には凡そ興味をひかれないだろう。もしマルクスが若き日と異なり哲学を否定し捨て去っていたのならば、まるでお呼びではなかったはずである。読む義務もないのに熟読はおろか通読すらしないだろう。
ところがマルクスはこの本を熟読吟味し、詳しい感想を残しているのである。
マルクスはラッサールに対してはお世辞を言い労いつつも、その問題点を具体的に指摘している。特にそれが冗長であることをラッサール本人にはやんわりと、エンゲルスとのやり取りでは痛烈に批判している。ラッサールの著書は実に60ボーゲン(960頁)もある膨大なものだが、せいぜい二ボーゲンもあれば足るなどと揶揄している。この際マルクスはラッサールのヘラクレイトス解釈はヘーゲル哲学史に何も新しいものを付け加えていないと批判している。
果たしてこれが、「哲学を清算した」者の書くことだろうか? 流石に当時のマルクスは他の研究に忙しく、若き日のように古代哲学の研究書を多く読む暇はなかっただろうが、その気持ちは若き日の古代哲学研究者のままである。マルクスはラッサールに対して自分が最も好きなのはアリストテレスで、ヘラクレイトスはその次だといい、自らの原子論研究についても触れている。そしてラッサールに彼のデモクリトス解釈は同意できないと言っている。
「学問としての哲学を否定」した者が、細かい哲学史理解にこだわるのはおかしいではないか。
マルクスがアリストテレスとヘラクレイトスを重視しているのは、前者が『資本論』で何度も引用されて重視されていることと、後者は『資本論』の方法論が唯物論的に改作されているとはいえ、なおヘーゲルから継承された弁証法であり、ヘラクレイトスはヘーゲルにより弁証法の古代的大家とされてるからだ。
こうした事実が意味するのは、マルクスが学問としての哲学を否定などしていないということでしかあり得ない。そして実際にマルクスは、アリストテレスやヘーゲルの哲学的遺産を自らの経済学理論に生かし、哲学を経済学の方法論的前提としている。
それだからマルクスは、ラッサールに対して弁証法をヘーゲルによって被っている神秘化から解き放つのが重要だと、後に『資本論』で強調される重要認識を伝え、エンゲルスには予め設えられた抽象的な体系を現実に機械的に適用するのではなく、現実に即しながら現実の弁証法的展開を取り出すのが重要だと伝えている。つまりマルクスからすればヘーゲルのエピゴーネンであるラッサールのヘラクレイトス論は、まさに弁証法の機械的適用なのだ。
こうしてマルクスは哲学を批判しているどころではない。それどころか哲学は、マルクスが現実社会を具体的に分析する中で、その現実に対する本質規定という形で前提されている。
従ってマルクスは哲学それ自体を批判しているのでも、哲学者という存在を否定しているわけでもない。何しろマルクスは疎外された労働生産物が資本に転化してそれが弁証法的に展開していく過程を『資本論』で説明しようとしたのである。資本の本質を疎外された生産物と見るのは明らかに疎外論という哲学的認識だし、弁証法は哲学的な方法論である。マルクスは哲学を否定しているどころか、哲学は彼の認識の前提であり、彼自身は明らかに自分を哲学とは関係のない「経済学者」などとは見なさずに、哲学者でもある経済学者だと認識していた。そしてこれは学問分化の進んだ今とは異なり、当時の知識人のあり方としては特に珍しいものでもなかったのである。
ではこのテーゼは何を言わんとしたかだが、もうお分かりだろうと思う。まさにすぐ前に扱った『経済学・哲学草稿』の考えられた共産主義と現実的な共産主義的実践の区別の重要性をより一般化した形で繰り返したということである。
そのためここでもまた批判されているのは実践的な社会変革運動と、運動のための指標となる理論活動の役割を適切に捉えられず、解釈それ自体が変革活動だと自惚れるような哲学者たちである。そのため念頭にあったのは明らかにブルーノ・バウアーのような啓蒙主義的なスタンスのヘーゲル左派哲学者であり、何よりも宗教の批判を重視したフォイエルバッハ及びフォイエルバッハ主義者のような哲学者である。
こうしてこのテーゼは、あくまで理論と実践の適切な関係に注意を促したものであり、そうした文脈の中で哲学の役割を適切に位置付けようとした試みである。哲学的な本質分析は重要だが、哲学それ自体が世の中を変えることはできない。
哲学がそれ自体として世の中を変えることができないなどというのは、現在の我々からは当たり前のようにも思えるが、当時のドイツでは真理にまで高められた自己意識によってこそ社会を変えることができるというような議論が普通に唱えられていたのであり、「世界を解釈する」ことこそが「世界を変えること」だという言説が大きく広がっていたのである。
マルクスは既にそうした言説に対する批判をこのテーゼの前に『聖家族』(1844年)等で行っていたが、ここで改めてもっと本格的にそうした観念論的思考を「イデオロギー」として批判しなければならないと考えたわけである。そのため、このテーゼに続けてマルクスはエンゲルスと共に実際に『ドイツ・イデオロギー』を執筆したのだが、残念ながら『ドイツ・イデオロギー』はマルクス生前にはその一部が発表されたに過ぎなかった。『ドイツ・イデオロギー』全体が刊行されたのは『経済学・哲学草稿』と共に1932年である。
マルクスを語るには『ドイツ・イデオロギー』と『経済学・哲学草稿』は必要不可欠である。しかしこれらは実にマルクス没後50年近くも経ってやっと陽の目を見たのである。その意味でマルクス生前は元よりマルクス没後もずっとマルクスの実像を理解することは困難だった。このことはマルクス研究上重要な意味を持つが、研究書でない本書では示唆するに止めておきたい。