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いまある世界の始まり 「脱植民地化」とは何か デイン・ケネディさん(歴史学者)[前篇]

記事:白水社

暴力の源を、グローバルな視点から問い直す! デイン・ケネディ著『脱植民地化 帝国・暴力・国民国家の世界史』(白水社刊)は、脱植民地化の4つの波を、250年におよぶ時間軸と世界各地の事例をもとに解説する。従来のイギリス帝国史を超える壮大なスケールで描いた記念碑的著作。
暴力の源を、グローバルな視点から問い直す! デイン・ケネディ著『脱植民地化 帝国・暴力・国民国家の世界史』(白水社刊)は、脱植民地化の4つの波を、250年におよぶ時間軸と世界各地の事例をもとに解説する。従来のイギリス帝国史を超える壮大なスケールで描いた記念碑的著作。

 国際連合は、1945年に設立されたときの加盟国51か国から大きく発展し、今日では193か国が加盟する。この間に承認された新しい国家の大多数は、ヨーロッパの帝国支配体制群が崩壊した結果として誕生した。それらの新国家は、植民地帝国の世界から国民国家ネーション=ステートの世界へという歴史的転換の産物である。ほかの種類の帝国がその転換を持ちこたえ、グローバルな情勢に影響を及ぼし続けたのは間違いない。しかし、そうした帝国も、国民国家を重んじる国際システムのなかで活動することを余儀なくされている。そこでは、領土保全と主権に対する国民国家の主張が重視され、主権はなんらかの仕方でその「人民ピープル」に由来するということが約束事として尊重される。この近代国際システムにとって受け入れがたいものと考えられてきたのが、植民地主義、すなわち、外来の権力が別の人民のうえに直接支配を押しつけることである。この立場は、1960年の第1514号決議で最高潮に達する、一連の国際連合決議で確認された。これらの決議は、植民地主義を「人権の深刻な侵犯として」非難し、ネーションの自決は「法的拘束力をもつ」と宣言した。こうした宣言は、政体と人民との関係を規定する国際的な規範に重大な変化が起きていたことを示している。

The United Nations building in midtown Manhattan, New York City[original photo: kmiragaya – stock.adobe.com]
The United Nations building in midtown Manhattan, New York City[original photo: kmiragaya – stock.adobe.com]

The emblem of the UN in its beginnings in 1945 and the flags of the founding countries of the UN in that year. Alphabetical order of the flags in Spanish.[original photo: Babelia – CC BY-SA 4.0]
The emblem of the UN in its beginnings in 1945 and the flags of the founding countries of the UN in that year. Alphabetical order of the flags in Spanish.[original photo: Babelia – CC BY-SA 4.0]

 この変化を引き起こした動乱の過程が、脱植民地化ディコロナイゼーションとして知られるようになった。この言葉は19世紀前半に、フランスのアルジェリア征服に反対するフランス人ジャーナリストによってつくり出されたようだ。続く2、30年間にその用法を取り入れる者もあったが、それからほぼ1世紀にわたってこの語は政治語彙から消えた。1930年代におけるこの語の復活が、ドイツ・ユダヤ人の著名な社会科学者で、ナチスから逃れてロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで教鞭を執ったモーリッツ・ユリウス・ボンの功績とされることも多い。とはいえ、第2次世界大戦までこの語はほとんど知られていなかったし、一般的に使われるようになるのは1960年以降のことであった。『オックスフォード英語辞典』は脱植民地化を「以前の植民地からの植民地権力の撤退(withdrawal)、そうした植民地による政治的もしくは経済的な独立の獲得(acquisition)」と定義する。この定義におけるキーワードは「withdrawal」〔申し込みの撤回などにも用いられる〕と「acquisition」であり、これらの語には相互の同意によっておこなわれる冷静な金融取り引きという含みがある。こうした連想は『オックスフォード英語辞典』が脱植民地化の同義語に挙げる「transfer」〔譲渡、移転〕によって補強される。この名詞は、法律用語で「ある人物から別の人物への財産の引き渡し」を意味する。第二次世界大戦後の数十年間に相次いだ、注意深く演出された数々の独立祝賀式典において、まさしくそのような引き渡しが履行されていった。私たちは、ニュース映画の場面やスチール写真を通じて、これらのイベントの一端を垣間見ることができる。そこに映るのは、植民地官吏やナショナリストの指導者たちが壇上に立ち、演説し、文書に署名をし、握手を交わし、楽団の演奏と群衆の喝采のなかで旗の上げ下げを見守るさまである。こうした言葉や映像は、第二次世界大戦後の数十年間における帝国の崩壊と新しい国民国家の興隆を、まるで合意にもとづくプロセスであり、平和裏に主権が譲渡されたかのようにみせてきた。

Moritz Julius Bonn(1873─1965)[original photo: o.Ang. – Bundesarchiv, Bild 146-1990-080-26A / CC-BY-SA 3.0]
Moritz Julius Bonn(1873─1965)[original photo: o.Ang. – Bundesarchiv, Bild 146-1990-080-26A / CC-BY-SA 3.0]

 これほど真実からかけ離れたこともないだろう。脱植民地化は暴力と激しい競争をともなうプロセスであった。そこでは帝国の支配者たちと植民地の被支配者たちとが対抗し、反植民地主義のナショナリストたちもまた互いに相争った。しかし、儀式ばった主権譲渡の舞台に代表を立たせた双方の当事者にはどちらにも、威風堂々たる式典に先立つ騒乱とトラウマをできるかぎり矮小化しようとする理由があった。植民地の諸人民を自らの管理下に留めておくことができない帝国の諸国家にとっては、権力の喪失を利他的な行為として描くことが望ましいのは明らかだった。つまり、被支配者たちが自治の責任を担えるようにするために植民地支配の重荷を引き受けて準備している、という長年の主張が現実のものになったというのである。しかし、これはしばしば、植民地にしがみつこうとする帝国諸国家の必死の決意と矛盾した。そうした決意のあらわれとしてもっとも悪名高いのは、容赦のない反乱鎮圧作戦であり、脱植民地化の歴史に長く暗い影を落とした。権力の譲渡に先行する暴力と無秩序によって、善意を主張することも優雅に退出することも叶わなくなると、帝国当局は文書の破壊や故意に忘却を進めることを通じて、そうした不愉快な事柄を公共の記憶パブリックメモリーからできるかぎり消し去ろうとした。

『脱植民地化 帝国・暴力・国民国家の世界史』(白水社刊)P.146─147より デイン・ケネディは、「現在イスラエルとなっているところにかつて存在したパレスティナ人の多くの村々は、森や公園やその他のオープンスペースになっており、そこに以前いた住民たちの存在が公共の記憶(パブリックメモリー)から消し去られてしまった。」と語る。
『脱植民地化 帝国・暴力・国民国家の世界史』(白水社刊)P.146─147より デイン・ケネディは、「現在イスラエルとなっているところにかつて存在したパレスティナ人の多くの村々は、森や公園やその他のオープンスペースになっており、そこに以前いた住民たちの存在が公共の記憶(パブリックメモリー)から消し去られてしまった。」と語る。

 植民地当局に取って代わったネーションの支配体制もまた、ほとんどの場合に権力の譲渡と同時に起きた大動乱について、選択的な記憶喪失を助長していく相応の理由を有していた。公定の歴史ではたしかに、独立を勝ち取るのに必要とされた闘争が称揚され、新しいネーションの創建者たちの試練や艱難辛苦に特別な関心が向けられた。しかし、異なるかたちで構成される国家およびネーション概念を追求した集団や個人は、そうした努力が内戦や民族浄化に結びついたこともあり、公定史のなかで無視されたり、悪者扱いされたりした。こうして、帝国の支配者とその後継者の双方は、出来事を選択的に、かつ無害化して描くバージョンの歴史叙述を促進していくことに利害の一致をみた。それは、それ自体を政治エリートによって進められた合理的なプロセスとして提示するものであり、政治エリートが下したもろもろの決定は、あたかも彼らが代表する政府の正統性を確認し、彼らがしたがっていると主張する国際システムの論理を肯定しているかのように描かれた。

 

【Decolonization and Disorder by Dane Kennedy】

 

 いくつかの植民地が大きな暴力を発生させずに独立を達成したのは真実である。アルジェリア、アンゴラ、ケニア、ベトナムのようなところでの、植民地支配者に対する長期にわたる血みどろの戦いが同時代人の注意を大いに引きつけ、歴史家やその他の学者たちによる精査を生み出し続けたことも同様に真実である。しかし、これらの事例はしばしば特異な例、つまり、植民地従属下にあった諸人民に主権が平和裏に譲渡されるという、広範にみられるパターンの例外とみなされてきた。

クレメント・アトリーとジョン・F・ケネディ(1961年5月16日)[original photo: Robert Knudsen]
クレメント・アトリーとジョン・F・ケネディ(1961年5月16日)[original photo: Robert Knudsen]

 こうした見方はとくに、海外に最大の帝国を有したイギリスにおいて広く行きわたってきた。たとえば、1961年に同国の元首相のクレメント・アトリーは、イギリスは「自ら進んで各地の臣民に対するヘゲモニーを手放し、彼らに自由を与えてきた」、しかも「外部からの圧力もなく、支配することの重荷にくたびれたのでもないのに」そうしたのだと述べた。イギリス帝国史家の一部には依然としてこうした見方を支持する者がいる。彼らは、イギリスの脱植民地化を周到に準備された比較的平和なプロセスとして描き、その過程ではほかの帝国列強(とりわけフランス)が陥った過ちが回避されたと考える。しかし、これまでの研究が明らかにしてきたのは、植民地の被支配者たちに対する権力を維持するためにイギリスが躊躇なく軍事力に頼り、万策尽きたときにはじめて撤退したということであった。近年、歴史家たちは、第二次世界大戦中および戦後のアジアのイギリス領全体にわたって吹き荒れた暴力、インドの分離独立にともなう悲惨なトラウマ、ケニアのキクユ人の大半を収監した残酷な反乱鎮圧作戦など、イギリス帝国末期の数十年間にしばしばあらわれる陰鬱なエピソードの数々に関心を寄せている。そして、イギリス支配の最後の数年間の当局による犯罪を詳述する無数の植民地文書が体系的に破棄されていたことや、政治的に厄介であったり法的に犯罪の証拠になりえたりするおよそ9000ものファイルが、数十年間にわたってハンスロープ・パークの秘密の政府文書保管所にしまい込まれていたことが暴露されるにつけ、イギリスもほかの帝国諸国家と同様に、権力を維持するためにはどんな手段も厭わなかったというすでに広まりつつあった共通理解が確かめられた。

 

【デイン・ケネディ『脱植民地化 帝国・暴力・国民国家の世界史』所収「序論」より】

[後篇につづく]

デイン・ケネディ『脱植民地化 帝国・暴力・国民国家の世界史』(白水社)目次
デイン・ケネディ『脱植民地化 帝国・暴力・国民国家の世界史』(白水社)目次

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