「最後の偉大なフランス人」を脱神話化する 『シャルル・ドゴール伝』[下]
記事:白水社
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皮肉なことに、ドゴール神話が離陸するのと同時に、フランス史──そして彼がそのなかで果たした役割──についてのドゴールのナラティヴはしだいにほころびを見せ始める。これはまず最初に、ドゴールが戦争のまわりに構築した伝説との関係のなかで起きた。1945年以降、彼は、対独協力者は(彼の言葉によれば)「ひと握りの惨めな者たち」に過ぎず、フランスはレジスタンスにおいて団結し──そして彼を中心にして団結した──国だという必要不可欠の神話を創造した。1968年以降、この神話に対して年下の世代から疑義が呈される。印象的な一例は1969年に公開されたマルセル・オフュールスの有名なドキュメンタリー・フィルム『哀しみと憐れみ』である。しばしば主張されるように、この作品が一夜にして、レジスタンスの国民としてのフランスのイメージを対独協力者のそれとおきかえたというのは必ずしも正確ではないが、それが占領について、これまでになく陰惨な光景を描き出したのは確かである。そこにはわずかのヒーローとわずかの悪漢、そして大勢の臆病な日和見主義者がいた。4時間にわたるフィルムのなかで、ドゴールにはほとんど触れられない。フィルムは聖画像を、政府がテレビでの放映許可を拒否するほど徹底的に破壊した。
【『哀しみと憐れみ』紹介動画:Le Chagrin et la pitié : une autre vision de l'Occupation | CINÉMA ET POLITIQUE】
『哀しみと憐れみ』を受けて、戦争についての民衆の記憶はしだいに、「最終的解決」〔ナチスによるユダヤ人絶滅計画〕に対するヴィシー政府の協力に収斂していった。ユダヤ人活動家はフランス政府に公式の謝罪を求めた。その声はミッテラン政権2期目(1988年─94年)に高まる。しかしミッテランは、ヴィシーは正統な政府ではなく、フランスを代表していないという根拠で謝罪を拒否した。歴史に残る反ドゴール主義者ミッテランが、戦時中、真の「フランス」はロンドンにあったというドゴール主義の公式ドクトリンを暗黙のうちに是認するはめになったのは皮肉な話である。戦時中のフランスにおけるユダヤ人迫害のタブーをついに破ったのは、第5共和政歴代大統領のなかで初めて若すぎて戦争には参加しなかったジャック・シラクである。1995年の厳粛な宣言のなかで、シラクはユダヤ人の運命に対する「フランス」の責任を認めた。つまりドゴール主義による戦時中のフランス史解釈の基盤を掘り崩したのは、名目上はドゴール主義者──ポンピドー「部屋」の出身ではあるが──の大統領だった。
同時にもうひとつのドゴール神話もしだいに説得力を失っていく。ドゴールの業績のひとつはアルジェリアにおけるフランスの敗北を一種の勝利に変えたことである。ピエノワールを別にすれば、フランス国民はこれをよろこんで信じたようだ。フランスは軍事的に勝利していたにもかかわらず、歴史的に人権を擁護してきた立場から、アルジェリアに独立を授与したというのがドゴールのナラティヴだった。ドゴールは植民地の過去を線で消し、フランス国民に輝かしい現代性を帯びた未来をあたえた。これはアルジェリア戦争の記憶が予測のできない形で表面に浮かびあがってくるまでの20年間はうまくいっていた。左派の側では、1961年10月のパリにおけるアルジェリア人大量虐殺が戦後フランス最悪の国家による犯罪として見られるようになった。アルキ〔補助部隊としてフランス軍に勤務したアルジェリアのムスリム〕の運命がしだいに注目されるようになり、2016年9月、オランド大統領は「アルキを放置したことについてのフランス政府(ドゴールの政府)の責任」を公式に認めた。
移民のあたえる影響と大きなムスリム・コミュニティの存在はしだいにフランス国民の強迫観念となっていくが、政治スペクトラムの反対の端では、その強迫観念がアルジェリア戦争についてのドゴールのナラティヴとはまったく異なる考え方に正当性をあたえている。2015年、ベジエ市長に選出されて間もないロベール・メナールは、エヴィアン協定締結日にちなんで名づけられた「1962年5月19日街」の名称を白紙にもどし、1961年の反ドゴール・クーデタに参加した兵士のひとりの名をとって「エリ=ドノワ=ド=サン=マルク少佐街」に変更した。これは明らかに反ドゴール主義的行動だったが、ほかにもドゴールへの忠誠を主張しながら、アルジェリア戦争を独自のやり方で解釈する者もいた。1980年代半ば、あるドゴール主義者は、ドゴールの業績のひとつは、「フランスのアルジェリア」には、「非ヨーロッパ系ベルベル=アラブ人とイスラム教のフランス本土への漸進的侵入の胚芽」が含まれるのを正しく予言したことだと書いた。2015年、ある右派の政治家は、フランスは歴史的に「白人種のユダヤ=キリスト教国」であると断言し、これはドゴールからの引用だと主張した。このように一部の保守主義者にとっては、アルジェリア問題におけるドゴールの業績は脱植民地化という気高い行為から多文化主義の危険を先どりした──人種差別的とは言わないにしても──予言的な行為へと裏返された。この場合、新しい見方は少なくとも、ドゴールが公式に主張したことよりもドゴールがほんとうに考えていたことに近いかもしれない。
フランス人がより「ドゴール的」になるにつれて、彼らはより「ドゴール主義的」ではなくなっていくように見える。しかしドゴール神話がドゴール主義的「物語」の解体の影響をほんとうには受けていないのは、神話がドゴールの人格を超越し、消え去った「栄光の30年」──フランス経済が見たところ、歯止めのきかない衰退の坂を下り始める前の黄金時代──への郷愁とそこはかとなく結びついているからである。1960年代はフランスが経済ばかりではなく文化の面でも成功していた──ドゴールの言葉を使えば、まさに「偉大」だった──10年間だった)。フランスの知識人と芸術家は世界に向かって語り、ドゴールのイメージはその思い出の輝きに浴している。ドゴールのフランスはカラヴェル機とシトロエンDSの、ジャン=ポール・サルトルとクロード・レヴィ=ストロースの、ブリジット・バルドーとジャン=リュック・ゴダールのフランスだった。2016年、右派のジャーナリスト、エリック・ゼムールは黙示録的タイトルの著作『フランスの自殺』を書く。この本はベストセラーとなるが、1970年11月12日のドゴール葬儀で象徴的に幕を開ける。ゼムールの不愉快なナラティヴでは、ドゴールの死が現在のフランスのすべての病(と彼が見なすもの)──国家の衰亡、フェミニズム、ホモセクシュアリティ、大量移民──の水門を開いたのである。
【『シャルル・ドゴール伝[下]』(白水社)所収「第30章 神話、遺産、業績」より】
【映画『ドゴール』予告編:De Gaulle - US Trailer】