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ハイデガーとデリダとの関係を解明 『デリダのハイデガー講義を読む』

記事:白水社

デリダで/とともに、「存在と時間」を考える! 『デリダのハイデガー講義を読む』(白水社刊)は、「歴史」を揺るがした全9回の講義を日本の哲学研究者たち(峰尾公也、加藤恵介、齋藤元紀、亀井大輔、長坂真澄、須藤訓任)が読み解く。ハイデガーとデリダとの関係を解明する研究の集成。
デリダで/とともに、「存在と時間」を考える! 『デリダのハイデガー講義を読む』(白水社刊)は、「歴史」を揺るがした全9回の講義を日本の哲学研究者たち(峰尾公也、加藤恵介、齋藤元紀、亀井大輔、長坂真澄、須藤訓任)が読み解く。ハイデガーとデリダとの関係を解明する研究の集成。

 本書は、ジャック・デリダが一九六四─六五年に高等師範学校で実施した講義の草稿にもとづく講義録『ハイデガー──存在の問いと歴史』の日本語訳(二〇二〇年、白水社)の刊行を機縁として、日本の哲学研究者がこの講義を読み解く論考六編を収めたものである。この講義録を手がかりにしてハイデガーおよびデリダについてさらに考えていきたい読者に向けて、あるいは、これから講義を読み進めるためにその手がかりを求める読者に向けて、講義の副読本となることを期待して、本書は編まれている。

『ジャック・デリダ講義録 ハイデガー──存在の問いと歴史』(白水社)
『ジャック・デリダ講義録 ハイデガー──存在の問いと歴史』(白水社)

 同時に本書は、デリダの講義録を共通のテクストとしてハイデガーとデリダとの関係を解明せんとする研究の集成でもある。執筆者にはハイデガー研究者もいればデリダ研究者もいるが、問題関心やスタンスの違いを有しながら、ともにこの講義録に強い関心を寄せ、それぞれの視点で考察を展開している。よって本書は、全編を通じて一貫した解釈を読者に提示するわけではない。むしろ、各論考を読むことによって、デリダの講義に含まれる複数の側面に焦点が当たり、講義の内実が立体的に照らし出されるだろう。

 デリダにとってハイデガーがいかに重要な哲学者であったかは、デリダ自身が何度も語っている。たとえば、『ポジシオン』(一九七二年)では「ハイデガーによって数々の問いが開かれなかったら、私の試みていることは何ひとつありえなかったでしょう」と述べている。ハイデガーがいなければデリダの脱構築の思想は生まれなかったというわけだが、その一方でデリダは、ハイデガーから受け継いだ問いをハイデガー自身にも向けることをやめなかった。「そのようにハイデガーに負債があるにもかかわらず、あるいは負債ゆえに、私はハイデガーのテクストのなかに、形而上学の帰属へのしるしをいくつか認めようと試みているのです」(Jacques Derrida, Positions, Minuit, 1972, p.18〔デリダ『ポジシオン』高橋允昭訳、青土社、一九九二年(増補新版)、一八─一九頁〕)。このようにデリダはハイデガーと一筋縄ではいかない関係を保ち続けた。

マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger 1889─1976)[original photo: Willy Pragher – CC BY-SA 3.0]
マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger 1889─1976)[original photo: Willy Pragher – CC BY-SA 3.0]

 この点において、デリダにとってハイデガーは最初から最後まで一貫して、ひとりの特権的な思想家であり続けたと言ってよい。すでに修士論文『フッサール哲学における発生の問題』(一九五三〜五四年執筆、一九九〇年刊行)以来、ハイデガーの名前はデリダの文章中に絶えず登場してきた。初期においても「暴力と形而上学」(一九六四年、『エクリチュールと差異』所収)や『グラマトロジーについて』(一九六七年)ではまとまったハイデガーへの言及がある。『哲学の余白』(一九七二年)の収録論文にもハイデガーへの論究は多く、とりわけ「ウーシアとグランメー」はその全体がハイデガーの『存在と時間』のあるひとつの註の註釈に宛てられる。こうしたハイデガー読解はデリダの晩年の講義にいたるまでそのテクストの大半で断続的になされている。

 またハイデガーの一九七六年の没後は、彼を主題とする論考も増えてきた。一九八三〜一九八九年にかけて書かれた「ゲシュレヒトⅠ 性的差異、存在論的差異」、「ハイデガーの手(ゲシュレヒトⅡ)」(以上『プシュケーⅡ』所収)、『哲学のナショナリズム──性、人種、ヒューマニティ』(「ゲシュレヒトⅢ」と呼ばれていた遺稿)、「ハイデッガーの耳 フィロポレモロジー(ゲシュレヒトⅣ)」(『友愛のポリティックス2』)の「ゲシュレヒト」シリーズ、そして『精神について』(一九八七年)、『アポリア』(一九九六年)などである。このように「デリダとハイデガー」という主題はすでにして巨大な課題であり、この課題に取り組むことは、デリダという思想家の核心に迫るものであることは間違いない。
では、どこからこの問いにアプローチすればよいか。

Plaque de l'allée Jacques Derrida, Paris.[original photo: Chabe01 – CC BY-SA 4.0]
Plaque de l'allée Jacques Derrida, Paris.[original photo: Chabe01 – CC BY-SA 4.0]

 それに最も適した入口のひとつが、ハイデガー講義である。そう考えるその理由はいくつかある。

 まず、この講義が一九六四〜六五年の時期に実施されたものだということが挙げられる。デリダはこのときすでにフッサール『幾何学の起源』を仏訳刊行しており(一九六二年)、その序文によってにわかに注目を集めていた。一九六三年からは矢継ぎ早にさまざまな論考を発表し続け、その活躍がまさに始まった頃である。しかし彼が本格的に世に認められるには、『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』『声と現象』を刊行する一九六七年まで待つことになる。したがってこの講義は、いわば、まだデリダが私たちの知るデリダになり切っていないとでもいうか、思想の生成過程の途上にある姿を見せている。すでに思想家デリダのイメージは流布しているが、この講義はまだ違った印象を与えるのではないか。

『ジャック・デリダ講義録 ハイデガー──存在の問いと歴史』(白水社)目次より
『ジャック・デリダ講義録 ハイデガー──存在の問いと歴史』(白水社)目次より

 第二に、こうしたデリダが取り組んでいるのが、ハイデガーの主著である『存在と時間』だという点にある。日本でも広く知られているこの古典的名著にデリダがどう取り組んでいたのかについては興味深いところである。すでに『哲学の余白』に所収の「ウーシアとグランメー」で『存在と時間』についての註釈が繰り広げられていたが、本講義はその議論に直結する内容である。また、デリダの講義を通じて、つまりデリダを案内役として、ハイデガーの思想へと入っていくことも可能だろう。

 第三に、この講義は学生を前にした連続講義であるということが挙げられる。デリダの講義録のいずれにも当てはまることだが、基本的に講義内容をすべて執筆したうえで講義に臨み、教壇ではそれを読み上げるというスタイルは、この講義で早くも確立されていたようだ。丁寧な引用とその解説、わかりやすい議論の運び、余談的な話題などは、講義ならではのものだろう。全体としては長い連続講義となるが、デリダ自身が各回の冒頭で前回までの要約を律儀におこなっており、聴衆が話の全体的な方向性を見失ってしまうことのないよう配慮もなされている。

『ジャック・デリダ講義録 ハイデガー──存在の問いと歴史』(白水社)口絵より
『ジャック・デリダ講義録 ハイデガー──存在の問いと歴史』(白水社)口絵より

 こうした理由で、この講義録からこの問題領域にアプローチすることは恰好であると思われる。その際に、本書がそのガイドブックの役割を果たすことができれば編者としては幸いである。

【『デリダのハイデガー講義を読む』所収「はじめに」より】

 

『デリダのハイデガー講義を読む』(白水社)目次より
『デリダのハイデガー講義を読む』(白水社)目次より

 

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