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ジェイムズ・ステュアートの商業論がわかる 『失われた〈重商主義〉の探求』[前篇]

記事:白水社

マルクスによって発見され、ケインズに見出された商業論がわかる! 塩見由梨著『失われた〈重商主義〉の探求──ジェイムズ・ステュアートの商業・利潤・貨幣』(白水社刊)は、「商業」の構造を再検討しながら、利潤論と貨幣論を読み直していく。経済原論の新地平を開拓した一冊。
マルクスによって発見され、ケインズに見出された商業論がわかる! 塩見由梨著『失われた〈重商主義〉の探求──ジェイムズ・ステュアートの商業・利潤・貨幣』(白水社刊)は、「商業」の構造を再検討しながら、利潤論と貨幣論を読み直していく。経済原論の新地平を開拓した一冊。

 本書は、ジェイムズ・ステュアートの主著『経済の諸原理にかんする研究』を商業論に注目して再検討し、〈商業の体系〉としてのステュアート理論再考を試みるものである。

Sir James Steuart Denham, 1713 - 1780[original image: Domenico Duprà – National Galleries Scotland]
Sir James Steuart Denham, 1713 - 1780[original image: Domenico Duprà – National Galleries Scotland]

 これまでの市場経済の歩みがつねにそうであったように、現代の経済もまたさまざまな課題に直面している。そしてその多くは、直接的にせよ間接的にせよ世界の物流網の機能を阻害し、商品の流通を攪乱し、日々の社会生活に少なからぬ影響を及ぼしている。こうした状況のもとで、社会生活の安定を守るため国家・政府が積極的に経済へ介入すべきか否かという議論、そして、そうした議論を支える経済思想の一つである重商主義への関心は非常に高まっている。

 本書が研究対象とするジェイムズ・ステュアートは、A・スミスと同時代の経済学者であり、一七六七年に上掲の表題を掲げる主著を発表した人物である。しかし、まもなくスミス『国富論』が古典派・自由主義経済学をうち立てると、かれとかれの理論とはスミス以前の経済学、すなわち「重商主義system of commerce」の経済学として長らく忘れ去られることとなった。十九世紀にはK・マルクスがステュアートを批判的に再評価し、また二十世紀にはJ・M・ケインズの登場により保護主義的経済理論への関心が高まったことを受け、ステュアート理論は再び経済学の歴史にその位置を認められるようになった。長い空白の期間を経て再発見されたステュアートは、今では一般に「最後の重商主義者」であり「最初の経済学体系」をつくりあげた人物であると評価されている。

 本書の研究もまた、ステュアートの再評価をめざす試みのひとつであり、またかれの重商主義理論の再発見をめざすものである。その道程において本書が有する特色は、ステュアートの商業論に注目するという点である。かれは商業活動が近代社会において担う機能にかんする独創的な分析を行ない、市場経済がいかに構築されてゆくのか、その生成と発展の論理に接近した最初の経済学者である。本書はそのことを示し、ステュアートの重商主義としての到達点を明らかにするとともに、その流通分析からステュアートが見出した近代社会の問題の構造を読みとくものとなる。

 

一 生涯と忘却

 はじめに、ステュアートとその主著について簡単に紹介をしておく。

 ジェイムズ・ステュアート(Sir James Steuart、1713-1780)は、スコットランドのエディンバラで法曹貴族の家に生まれた。同市の大学で法学と歴史学を学び、弁護士資格も取得する。その後、当時の貴族の慣いとして一七三五年から一七四〇年までヨーロッパ大陸諸国を遊学した。ローマに滞在した際に、同郷の旧ステュアート朝亡命者と親交をもったかれは、帰国後の一七四五年に始まるジャコバイトの乱に反乱軍の一員として参加する。翌年に反乱軍が敗北すると、外交のため渡仏していたステュアートも国外追放の措置をうけることとなった。大陸諸国を歴訪しながらの亡命生活は、一七六三年まで十八年間つづいた。それまで政治に関心をよせていたステュアートが経済学を企図するようになったのは、この亡命中であったとされる。

 かれはフランス滞在中にモンテスキューやヒュームの著作の影響をうけ、経済の体系を学問としてくみ立てる構想を抱くようになった。フランスやオランダを経て南ドイツに滞在していた一七五六年ごろにのちの主著の執筆がはじめられ、第一、二編は一七五八年までに、第三編も一七六〇年ごろにはほぼ仕上げられた。その後一七六二年末に黙許を得て帰国を果たし、故郷で土地貴族として暮らしながら残る第四、五編を書きあげた。

 かくして完成した主著は、『経済の諸原理にかんする研究』(以下、『原理』とする)という表題を付され、一七六七年にロンドンで出版された。Political Economyを表題に冠した英語の著書は、これが最初であったとされる。イギリスにおけるポリティカル・エコノミーのテキストとして『原理』はしばらく重用されたようだが、内容への評価はおおむね消極的であった。経済的規制などの提言は、競争力をたくわえ自由貿易を推進してゆこうというイギリスの経済状態をあらわすものではなかった。また、わずか九年後にスミス『国富論』が世に発表されたことは、『原理』の「古さ」をいっそう際立たせたものと考えられる。ステュアート自身は、新たに貨幣制度などに関する論文を執筆すると同時に、反批判も含めて『原理』への加筆、修正をすすめた。これを反映した『原理』の増補改訂版は、没後に息子のステュアート将軍が一八〇五年に刊行した著作集に収録された。

Inquiry into the principles of political oeconomy
Inquiry into the principles of political oeconomy

 このように出版後も決して好評を集めたとはいえなかった『原理』だが、それがいちはやく科学としての経済学の体系化を試みた著作であったことは事実である。全五編はそれぞれ、第一編「人口と農業」、第二編「交易と勤労」、第三編「貨幣と鋳貨」、第四編「信用と負債」、第五編「租税とその適切な使用」と題される。

 第一編では、はじめに人口増殖と食糧生産としての農業の関係が議論される。増殖を支える要因としての農業の剰余生産、そして剰余生産を刺激する誘因として貨幣と奢侈へ議論をつなげ、『原理』の考察対象である近代社会の特徴、とくに自由と利己心に支えられた「勤労」という自発的労働の登場が説明される。

 第二編では、勤労の展開からあらわれる交易の原理を中心として、需要、価格、利潤、競争の原理が理論的に考察される。ステュアートはこれらの諸概念の検討を通して、自由と利己心からくる経済の原理が、一面ではさらなる交易、さらなる勤労を刺激するが、他面では国内に不均衡を引き起こすことを指摘した。そうして第二編は、自由な競争の分析という出発点から、次第に経済の不安定性に対処するための需要創出や産業保護、また貿易政策へと展開されてゆく。

 第三編からは、流通にかんする原理がさらに深められてゆく。第三編は計算貨幣の理論を基礎に、現実の鋳貨問題に対する改鋳案や鋳造料の分析が行なわれる。第四編では、貨幣不足を補う信用の原理が考察され、信用の確立のために必要な政策的配慮や制度について、ロー銀行に対する自身の見解なども交えつつ議論がなされる。最後の第五編では、政府による各種の租税が流通に与える影響を分析し、望ましい租税制度のあり方を論ずる。

 『原理』は、このように歴史・理論・政策を包括した体系的研究であるものの、経済学の歴史の中で相応に評価されるまでには時間を要した。そこには、既述のようなこの本の古さや、後述のような不遇な沈黙が大いに影響していた。ステュアート理論は、明確な継承者を得ることなく長い間忘却されていた。そして再発見されたとき、かれはすでに「重商主義者」になっていたのである。

[後篇につづく]

【塩見由梨『失われた〈重商主義〉の探求 ジェイムズ・ステュアートの商業・利潤・貨幣』(白水社)所収「序論」より】

『失われた〈重商主義〉の探求 ジェイムズ・ステュアートの商業・利潤・貨幣』(白水社)目次より
『失われた〈重商主義〉の探求 ジェイムズ・ステュアートの商業・利潤・貨幣』(白水社)目次より

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