1. じんぶん堂TOP
  2. 歴史・社会
  3. 半径数メートルから問いを発する「わたしたちのための民俗学」―『生きづらさの民俗学』書評―  塚原伸治

半径数メートルから問いを発する「わたしたちのための民俗学」―『生きづらさの民俗学』書評―  塚原伸治

記事:明石書店

『生きづらさの民俗学—日常の中の差別・排除を捉える』(及川祥平・川松あかり・辻本侑生編著、明石書店)
『生きづらさの民俗学—日常の中の差別・排除を捉える』(及川祥平・川松あかり・辻本侑生編著、明石書店)

 みんながそれぞれに生きづらい世の中に向きあって、自分たちのこととして考えてみましょう。

 ややもすると説教くさくなってしまいそうな呼びかけなのだが、この本では不思議とあまりそんなふうに感じなかった。『生きづらさの民俗学』の魅力を誰かに伝えるときに、何よりもまずこのように紹介するだろう。なぜならば、このことは私が語りたい民俗学の魅力や可能性、そして厄介さとつながっているような気がするからだ。

「日常」の民俗学

 民俗学はこの20~30年くらいで大きな変化を経験した。まだ世間のイメージとの間にずれはあるかもしれないが、少なくとも2000年代以降に民俗学に触れた我々世代の学徒にとっては、「ローカルな伝統文化の研究をするのが民俗学」という自己規定はすでにだいぶ相対化されつつある。これはたしかに「新しい流行や現代的な事象を扱うようになった」という対象の変化の話でもあるが、それはやや事態を矮小化している。むしろここ数十年の動向は、研究対象によって境界線を引くことで持ち場を狭くするのではなく、どんどん外側に出ていこうという立場を明確にしてきたといえる。重要なのは、新しいことを言うために「これは民俗学ではない」という別の境界線を引くことではなくて、どんな対象を扱おうと民俗学であってよいというインクルーシヴな立場をとることだろう。

 本書のキーワードのひとつでもある「日常」も、そのような流れのなかで前景化してきた。これは岩本通弥が強く押し出し、日常と文化研究会の雑誌『日常と文化』によって全面展開された動向であるが、同時代を生きる人びとの現実に目を向け、生活実感から遠くないところで問いを立てるべきだというのが、そこに込められた意図のひとつである。この「日常の民俗学」の意図を真正面からくみ取れば、現代社会における差別や排除を扱うことは、民俗学の中心的な課題として浮上することになる。

 当然、差別や社会的排除について扱うことは学問全体の大きな潮流であり、学生や一般読者がより共感しやすい内容や社会問題を扱うことは、複数分野が共有する志向性だろう。民俗学はいわば様々な分野の入会地に入り込んだともいえるので、私はおのずと、このような重なりにおける民俗学の特徴について考えてしまう。

 「○○学と違って○○学はこうである」という語りは、往々にして他者を過小評価し、何かを排除することで成り立っていることが多いから要注意である。とはいえ、学問分野にはそれぞれ蓄積によって特徴づけられたクセがあることもたしかだから、そのようなクセに向きあい、民俗学らしさについて考えることは、意味のないことではないだろう。

わたしたちのための学問

 そこで冒頭に本書の魅力として書いた「説教くさくない」という読後感に戻ってくる。もちろんこれは、著者たちの謙虚なキャラクターによる部分も大きいだろう。しかし、この読後感の出どころは、民俗学の特徴によるものでもあると私は考えている。

 詳しくは本書に書かれていることだが、人びとが直面する社会的課題に取り組むことは、じつは民俗学においては最近の研究動向ではない。むしろ、民俗学がその当初にもっていた志向性であった。たとえば室井康成の研究などで明らかになったように、柳田國男の構想した民俗学は、人びとが自らの生活を満たす様々な拘束性に向きあって相対化し、それによってより良き社会の実現を目指すという、おおいに政治的な使命を帯びたものだった(室井康成2010『柳田國男の民俗学構想』森話社)。柳田がそういったからといって、それを守る必要などないのだが、少なくとも、そのようなアクチュアリティが当初の柳田民俗学にはあったということは強調しておいていいだろう。

 ここで重要なのが、この主張が、単に現実に起こっている課題に取り組むことだけを求めているのではないということだ。柳田を引き継ぐアクチュアリティ志向の民俗学の独創性は、現代社会の課題に向きあうために、遠いどこかではなく、私たちの身の回りから問うことをせまるところにある。あくまでも「何故に我々は……」と問うのが日常学としての民俗学の中心的な思考法である(本書第Ⅰ部第2章)。

 この部分を単体で取り出すならば、必ずしも特別な表現とはいえない。たとえば私はギデンズが社会学の教科書に書いた「熟知した、判で押したようなみずからの毎日の生活を新たな目で見直すために、そうした毎日の生活の当たりまえのことがらから「離脱して、自分自身について考える」こと」(アンソニー・ギデンズ2009『社会学(第5版)』、而立書房、p.10)を思い出した。自らの当たり前を問うことを十八番としている学問分野は多い。

 本書の総論が掲げる日常の民俗学はおおむねこれと重なっているように思うのだが、少しだけ違うような気もしている。その正体は、たぶん著者(=研究者)と読者の間の独特な距離感にある。この本の目論見は、大胆にも、研究者を読者と同じ箱の中に入れてしまうところにあるからだ。あるいはもっと踏み込んで述べるならば、読者に向けて書かれているはずなのに、著者が読者に向けて「私を仲間に入れてください」「私といっしょに考えてください」と誘ってくるような、そういう感じがあるのである。

 入門書は著者が読者をある分野に誘うものであるから、身近なところから考えるべし、というのはさほど珍しくない。しかし、研究者は知識の生産者で、読者は消費者であるという前提は簡単に乗り越えらえるものではない。身近なところから考えるといっても、その材料は著者である研究者が与えるのが普通だろう。民俗学にはそのスタンスで書かれた入門書も多い。

 一方、この本では、なんだか著者自身が迷っているような、「いっしょに考えてください」といっているような、そんな印象を受けるのである。じつはこれこそが本書のもっとも「民俗学らしい」部分なのではないかと思っている。まえがきに、「『研究者』と『生活者』の立場が明確に分離せず、むしろ研究と生活が否応なく密接に交じり合ってしまう」(p.8)ところに民俗学の醍醐味があるという記述を再発見して納得した。そんな迷いや弱さをさらけ出しながら「いっしょに考えてくれませんか?」と誘われているような、そんな魅力が本書にはある。そしてこれこそが民俗学の持ち味であるにちがいない。

複数の「日常」へ

 ところで、少しだけ気になったことがある。それは、身近なところから問いを発する学問として民俗学を考えようとするならば、民俗学全体のうち半分しかとらえられていないように思うからだ。

 柳田國男を引き算してみるならば、1930年代に民俗学が組織化されていったとき、そこに集まった人たちを支えていたのは、旅に出て帰ってくることであり、人の生活がこんなにも異なっていることへの関心でもあったはずだ。そこには、問いを発する前に身体が動いてしまった、そんな人たちも集っていたにちがいない。

 この本の裏テーマは、フィールドワークの神話を解体することだ。たしかに本書でも書かれているように、差別や排除の問題に取り組むのに、現地調査だけが万能ではない。調べものの一種として考えるならばおそらくそれは正しいだろう。しかし、私としては、フィールドワークの中核にあるのは、「現地ならではのデータを得る」ことではなくて、半径数メートルからは問えない問いをみつけることだと考えている。私たちが現地ですべきことは、そこにいる私ではない誰かについて真剣に考えることであり、問いを外から持ち込まないことである。実際、第Ⅲ部の実践編で提示されるフィールドワークのほとんどは、まさに問いがあとからやってくる形になっていて、「身近なところから問いを発する」という手続きにはなっていない。

 この姿勢は、フィールドワーク特有のようにもみえるが、資料調査などのスタイルでも可能だ。資料を、データを得るための素材としてではなく、どこかの誰かの世界に身をゆだねながら、ゆっくり問いを育てる場とすることもできるだろう。たとえば本書の第Ⅲ部第5章は狭義の文字資料について扱っているが、事前に立てた問いに答えるためのデータを収集するだけではなく、問いを育てていくことに対しても開かれている。

 私に日常があるように、私ではない誰かにも日常がある。しかし、自分の周り半径数メートルから日常を問うことと、自分ではない誰かの日常について考えることは同じではない。前者は問いが手前にあり、後者は問いが後にあるからだ。そしてふたつは「まぜるな危険」なのではないかとも思う。少し大げさにいえば、私のための問いを、外から持ち込んで別の誰かについての問いにすり替えてしまうことは、暴力的なものになる可能性すらはらんでいる。特にそれがある種のシリアスな日常であるならばなおさらだ。

 そうであるとするならば、「日常の民俗学」は今後ふたつの方向に分かれていくのかもしれない。半径数メートルから問いを発し「何故に我々は」と問う立場と、どこかの誰かの生に向きあい、そこから問いを育てていく立場である。総論では強調されていないが、この本ではじつはそれぞれの著者がいずれかの立場を採用しているようにみえる。どちらが優れているというのではなく、違いがあることを自覚化しておく必要があるだろう。

 そして、これはおそらく非常によいことである。学問においては、可能な限りたくさんの視点や立場が用意されていたほうがいい。それは端的に豊かさの証でもあるからだ。この本が起爆剤となって、民俗学の後進たちがそれぞれ現実的な社会課題に取り組むようになっていくことを予想するとき、この本が複数の立場を同居させていることは、何にもかえがたい潜在的な可能性をはらんでいるといえるだろう。

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ