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沈黙が声を発し、空席が姿を見せる~本当の民主主義の息吹『黙々』

記事:明石書店

『黙々――聞かれなかった声とともに歩く哲学』(高秉權著、影本剛訳、明石書店)
『黙々――聞かれなかった声とともに歩く哲学』(高秉權著、影本剛訳、明石書店)

 現代の民主主義社会は、ある種の人々から声を奪うことで成立している。入所施設や精神科病院で長期収容されている障害者の存在は忘れられている。生活保護の受給者が声を上げるだけで、世間からバッシングを受ける。性被害者、難民、失業者たちの声は抑圧され、黙らされる。抑圧され、排除された者たちのほとんどは、無念の思いを抱き、沈黙するしかない。

 世間からは見向きされないその無念、沈黙。

 押しつけられ積もっているが吐き出されない思い。

 本書はまさにその無念や沈黙に耳を傾け、その声を聞くことで本当の意味での民主主義の息吹を見出す本だ。

「研究空間スユ+ノモ」と「ノドゥル障害者夜学」

 著者高秉權(コ・ビョングォン)氏は、韓国では著名な在野の哲学者であり言論人だ。2000年代には「研究空間スユ+ノモ」という若手研究者たちの共同体の実践を担っていた。知を大学にとじこめず、大衆に開かれ、その生活に根付いたものにしようとする希望に満ちた実践であった。だがこの研究共同体は方針の対立などから人間関係に確執が生じ分裂する。

 一方、著者は「ノドゥル障害者夜学」という、就学の機会の場を奪われた障害者たちの学びの場に2008年から哲学教師として関わる。学校に行けなかった障害者たちにとってこの夜学は「覚醒の空間」であった。当時、街の階段、バス、地下鉄は障害者の移動をほとんど許さなかった。この社会を変えねばならなかった。障害者は学生になるためにはまず闘士にならねばならなかった。このノドゥル夜学に集う障害者たちは、街頭に姿を現し、バスの行く手を防ぎ、線路に身体を縛りつけるなど、移動権闘争を展開した。

 著者はこの夜学の授業ではまずニーチェについて語った。けれどもはじめはとても緊張し、教室はあまりに静かだった。重苦しい沈黙が支配し、逃げ出したくなった。沈黙を破ったのは獅子吼を吐くように響くある障害者の大声だった。

「おい!こりゃありえんね!」

 このときから著者の言葉は障害者たちの生と結びつくようになった。

「正しい言葉」の限界

 スユ+ノモでの挫折体験は、著者に「正しい言葉」の限界を知らしめた。
2009年にスユ+ノモが壊れたとき、その場には「正しい言葉」の専制的支配が持続していたそうだ。「いつからだったか誤った言葉、中身のない言葉、意味のない言葉、ユーモラスな言葉が辺境へ追いやられたり、消えたりした」という。

 そのとき、正しい言葉で他者を威嚇し支配しようとする暴力的な状況がうまれた。

 正しい言葉がひたすら正しい言葉に留まる時、暴力が登場しうる。…わたしが体験した暴力的な状況は、おおよその場合正しい言葉をしゃべる側でつくりだされた。

 同様に朴槿恵退陣を求めて大規模なデモが形成されたときに叫ばれた「正義の大韓民国」「改革のための大連立」などの「きれいな言葉」にも著者は違和感を抱く。ある若者は政権について「ありえないですよ」といいつつ、「ため息」をつく。なぜため息をつくのか著者が聞くと、若者は答える。「なんとなくですよ。どう生きていくか息苦しくて……」。

 著者はこの「ため息」に着目する。政治的な指導者の声を聞くことも大事だろうが、「わたしたちがより耳を傾けなければならないのはわたしたちのそばにあるため息の音だ」と。

沈黙や震えから生成される言葉

 一方、ノドゥル夜学での授業では、言葉が身体の震えと結びつき生成する現場に出会う。ニーチェの『ツァラトゥストラ』について講義をしているとき、多くの学生(障害者)は眠りにつき、またケータイをいじっていた。けれどもある言葉が発せられたとき、彼らの身体が敏感に反応した。 

 「心中には猛獣が棲んでいる」…その表現に接した学生たちの身体が興奮した。とつぜん筋肉が硬直し、悲鳴のような叫びが弾けでて、車いすがガタガタ揺れた。

 言葉が彼らの血肉と化した瞬間だ(しばしば言語障害のある脳性マヒ者は言葉を発しようとする手前で眼光を鋭くし、身震いする)。言葉が言葉として生じる前の沈黙の中に、身体の震え、緊張、空気、雰囲気等の何かが生じる。「言葉以前の言葉」のようなものと著者はいう。

 言葉よりも先に生じ、もっと言えば言葉を聞く前にも空気を先に読む何かがある。それは言葉を言う前に口びるをふるえさせ、いくつもの穴から汗を押しだす。語る時だけでなく、言葉を聞く時もそうである。まだ話者の言葉が始まっていないにもかかわらず、聴者の身体はその言葉をあらかじめ聞いたかのように緊張する。「言葉以前の言葉」を聞いたと言うべきか。言葉の媒質である空気を感知するのだ。ためらいと緊張。言葉で表現できず、言葉が統制することもできない領域がある。

 言葉はこのように、「言葉が統制することもできない領域」から生まれてくる。

 ちなみに、『神曲』の作者ダンテはその言語思想を論じた『俗語論』において、楽園追放以来、人間の言葉は常に絶望の感嘆詞「Heu!」から始まると述べているそうだ。プリンストン大学比較文学教授の言語哲学者ダニエル・ヘラー=ローゼンはこれについて、「叫びの可能性を認めない言語は人間の言語ではあり得ないだろう」と説く。間投詞やオノマトペを発する時、あるいは動物の鳴き声や、自然音や機械音など自分には異質な音を模倣するとき、言葉は「外への呼びかけ(ex-clamare)」として、沈黙や非言語の中にみずからを現す(『エコラリアス 言語の忘却について』みすず書房2018年)。言葉にならない叫びや沈黙、言葉にしがたい異質性(他者性)は、言語がそこから生成され続ける源である。

 逆に、その沈黙や他者性を忘れた言葉は、前述の如く、虚空を漂うか、あるいは他者に暴力をふるう言葉になる。

「黙々(もくもく)」

 本書のタイトルは『黙々』だ。ハングル語では「ムンムク」。日本語では「もくもく」である。最初に発せられる「m」は、口をつぐむさまをあらわす。沈黙のときの「m」であり、がまんするときの「m」、そして語りたくても語れないときの「m」である。本書にこのことは書かれていないが、本書を通読したとき、この口をつぐむ「m」がイメージされた(それは乳児が最初に発する言葉「ママ(mama)」や「オモニ(omoni)」にも通じる)。思いが込められ言葉が発せられる手前で閉じられている「m」である。

 この「m」に込められた思いを聞き取らないといけない。その中には、現代の着飾りつつ陳腐になった言葉には見いだされない新たな言葉の可能性、そしてそれぞれの人々の思いを改めて大事にする民主主義の可能性がある。

 世の中に語ることのできない存在はおらず、ただ聞くことのできない存在、聞くことをしない存在がいるのみだ。それゆえ政治的存在として、私たちが投げかけるべき問いは「彼らは語ることができるか」ではなく「私たちは聞くことができるか」である。

 声高で分かりやすい言葉が語られている本ではない。

 他者の沈黙や空席の中にこそ、新たな生、新たな社会に向けた可能性があることを示す本である。

 自分にわかる言葉を正しく語るよりも、沈黙を強いられた存在に耳をすまし、排除されて空席となったところの存在の姿を感じ取ろう。

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