1. じんぶん堂TOP
  2. 歴史・社会
  3. チェコスロヴァキアでなく、スロヴァキアとして30年――『スロヴァキアを知るための64章』刊行に寄せて

チェコスロヴァキアでなく、スロヴァキアとして30年――『スロヴァキアを知るための64章』刊行に寄せて

記事:明石書店

SNP広場から望むスロヴァキアの首都ブラチスラヴァの市街。体制転換期にはこの広場を人が埋め尽くした。(2022年、筆者撮影)
SNP広場から望むスロヴァキアの首都ブラチスラヴァの市街。体制転換期にはこの広場を人が埋め尽くした。(2022年、筆者撮影)

 チェコスロヴァキアは1992年末に連邦を解体し、1993年1月1日にスロヴァキア共和国は成立した。現在のスロヴァキアは、人口はおよそ540万人で、その面積は九州よりやや広い程度であるので、ヨーロッパの小国といえるだろう。ただし、この領域は20世紀まで長くハンガリー王国の一部、1918年からはチェコスロヴァキアを構成する一部であり、歴史的な帰属の変遷を経験してきた。ミュンヘン会談の結果、1939年から1945年の間は一時的に独立したが、第2次世界大戦後には、チェコスロヴァキアに戻り、社会主義体制も経験した。スロヴァキア共和国の成立が決定したのは、1989年の社会主義体制の崩壊からおよそ3年後である。

 このような歴史は、現在のスロヴァキアの生活の随所でその片鱗をうかがうことができる。スロヴァキアの主要なマイノリティ集団のひとつがハンガリー系であるのは、過去の経緯の結果である。第2次世界大戦までは、それなりの人口がいたドイツ系、ユダヤ系の人々の痕跡も各地に残る。スロヴァキアの首都ブラチスラヴァは、現在はスロヴァキア系が圧倒的多数を占めるが、チェコスロヴァキアが成立した20世紀初めの時点では、ドイツ系やハンガリー系人口の割合が非常に高い町であった(第35章「スロヴァキア人のほろ苦い首都」参照)。

 そのようなブラチスラヴァにおいて、1989年の11月末から始まる体制転換期に人々が集まる場となったのが、写真のSNP広場である。SNPとはスロヴァキア国民(民族)蜂起の略称であり、1944年にナチス・ドイツへの抵抗運動としてスロヴァキア中部で始まった武装蜂起である(第17章「スロヴァキア国民蜂起の記憶」参照)。2ヶ月で鎮圧されたが、今日ではスロヴァキアが「連合国」の側に立って戦った証しとされている。この蜂起には共産党員も加わっていたため、後の社会主義期には、蜂起は反ファシズムのために戦った共産党の功績と解釈され、スロヴァキアの多くの町で、広場や通りの名前にSNPが用いられた。社会主義体制の崩壊後、社会主義時代を想起させる通りや広場の名前はしばしば変更されたが、SNPは体制転換後もスロヴァキアの反ファシズム闘争として歴史的に意味あるものと理解され続け、SNP広場やSNP通りはそのまま多くの町に残っている。余談ながら、チェコ人と雑談した折に、「スロヴァキアにはまだSNP広場とか、そんな社会主義的な名前が残っているの?」と驚かれたことがあり、チェコとスロヴァキアのSNPの認識の違いに筆者も驚いたことがある。なお現在、蜂起が始まった8月29日は、スロヴァキア国家が定めた祝日である。

SNP広場の彫像の正面図。民族蜂起に参加する若者と背後で心配そうに見守る2人の女性と思われる。(2022年、筆者撮影)
SNP広場の彫像の正面図。民族蜂起に参加する若者と背後で心配そうに見守る2人の女性と思われる。(2022年、筆者撮影)

スロヴァキアの地方へ

 日本からスロヴァキアに向かう旅行者の多くは、オーストリアのウィーンやハンガリーのブダペスト、チェコのプラハやブルノからアクセスのよい首都ブラチスラヴァを中心とした西部の町を訪問する。首都ブラチスラヴァにも、ブラチスラヴァ城や旧市街、近郊のワイナリーなどの見所があるのだが、スロヴァキアの世界遺産や特色ある食べ物、スロヴァキア人にとって「スロヴァキアらしい」景観などは、首都から離れた地方に点在する。

 例えば、スロヴァキアの国章、国歌にも使用されるタトラ山脈は、北部に位置し、ブラチスラヴァから電車で4時間くらいかかる。夏はトレッキング、冬はスキーのリゾート地として観光客も多いが、スロヴァキアの東西を結ぶ電車のなかからでもその姿を望むことはできる。タトラ山脈を抱えるスロヴァキアの北部から中部にかけての地域は、全体的に山がちであり、この地域はスロヴァキアを代表する料理によく用いられる、羊の乳を原料とするチーズ(ブリンザ)が作られる地域でもある。これらの山に囲まれた村や小都市では、多くのフォークロア・フェスティバルも開催される(第57章「伝統文化継承と民族交流」参照)。先に紹介したスロヴァキア国民(民族)蜂起も山に囲まれた都市であるバンスカー・ビストリツァを拠点としていた。

 スロヴァキアの年中行事は、キリスト教と農村の生活に根差したものである。近年は少子高齢化と人口流出に悩む地域も多いが、村おこしやツーリズムの一環として、あるいは消防団や民族舞踊団の協力を得ながら、行事を維持する自治体も多い。村落であっても、スーパーマーケットのある生活が普及しているが、庭で採れた野菜や果樹、自家製のソーセージや、山で採ってきたキノコを用いて料理をする家庭も珍しくない。そのような地域に根差した人々の生活も非常に興味深い(第45章「地方生活の密やかな楽しみ」、第46章「スロヴァキアの家庭の味」参照)。

車窓から望むタトラ山脈とふもとの市街(2023年、筆者撮影)
車窓から望むタトラ山脈とふもとの市街(2023年、筆者撮影)

ウクライナの隣国として

 チェコやハンガリーなど、隣接する国と歴史的に深い関係を持つスロヴァキアであるが、隣国の1つであるウクライナの状況は、現在のスロヴァキアに大きな影響を与えてる(第32章「ロシアのウクライナ侵攻に対するスロヴァキアの対応」参照)。2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻により、多数のウクライナ人が陸路で国境を越えて避難した。ポーランドへ逃れた人が多いことは広く伝えられているが、スロヴァキアへ逃げた人も多い。ウクライナの人々は、2022年より前から査証なしでスロヴァキアに入国可能だったため、スロヴァキア・ウクライナ国境は以前から活発な往来があったが、戦争による避難民の流入の影響は国境地域だけでなく、スロヴァキア全土におよぶ。スロヴァキアを通過してチェコやドイツなどに向かった人も、既にウクライナに戻った人も一定数いるが、行政やNGOなどの支援を受けながら、スロヴァキア各地に留まる人も多い。

 『スロヴァキアを知るための64章』には記載していないが、2023年3月と9月に筆者はスロヴァキアの地方都市で、ウクライナ避難民支援を行う団体に聞き取り調査を行った。現在もスロヴァキアに留まる避難民は、戦線に近いウクライナ東部から逃げてきた人が多く、西部やキーウ周辺地域からの避難民は、しばらくしてからウクライナに戻ったという(ただし、それゆえに「まだ帰らないの?」と尋ねられることが、現在も留まる人を苦しめているとも聞いた)。一方で、条件のいい仕事が少ないにもかかわらず、ウクライナ国境に近い東スロヴァキアに拠点を置き、残っている家族のために定期的にウクライナとスロヴァキアを往復する人も増えているという。ウクライナ国内でも東部から西部への国内避難が行われているので、東部出身者が国内と国外にそれぞれ分かれて避難するという選択肢は充分考えられる。東スロヴァキアの中心都市コシツェのバスターミナルに行くと、ウクライナ行きの国際バスの本数は、筆者が最後にスロヴァキアからウクライナに出かけた2019年に比べて、格段に増えていた。長引く戦争により避難民の状況も変化しているようだった。

 スロヴァキア政府は基本的にEUの方針に沿い、ウクライナ支援に積極的な対応を取ってきたが、戦争が長期化するなかで、支援に前向きではない人々の存在も目立ち始めた。2023年9月の国政選挙で第一党になったスメルSmerは、ウクライナ支援に消極的であり、今後の動向が注目されている。『スロヴァキア知るための64章』がスロヴァキアだけでなく、この周辺地域を含めて中欧・東欧社会を理解する一助となれば幸いである。

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ