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日本のなかのレイシズムと格闘するための一冊 ――『大学生がレイシズムに向き合って考えてみた』書評(兼子歩)

記事:明石書店

『大学生がレイシズムに向き合って考えてみた』(明石書店)
『大学生がレイシズムに向き合って考えてみた』(明石書店)

日常に潜んでいるレイシズムに気づく

 数年前のことである。評者が自宅の近所を歩いていると、ある美容室の前に置かれた黒板に、このような言葉が書かれていることに気づいた。「外国人みたいな明るい髪色に!」。その下に貼られていた写真は、亜麻色のような髪の色をした女性の後ろ姿であった。うちの美容室で髪を染めると、染めたとは思えないくらい自然な仕上がりになります、ということだろう。

 私たちの多くは、このような表現にこれといった違和感をおぼえないかもしれない。なぜなら、「外国人みたい」、いや、もっと言えば「外人」みたい、という表現は、日常生活の中で珍しくない上に、言う側も言われる側もその含意を完全に了解しているからである。

 しかし、考えてみるとおかしな表現である。「外国人」という言葉は、本来、国籍が自国―─この場合は日本国──ではない、という法的な地位を表している言葉である。だが、先の美容室の黒板の言葉は、「外国人」と言う概念が特定の身体的特徴と結びついて理解されていることがわかる。そして、そのような髪色を先天的にもつ人間は、「日本人」にはいない、という仮定に基づいている。「日本人」が単なる日本国籍者である以上に、特定の身体的特徴を持っている、あるいは持っていない集団である、という前提が存在する。

 では、生まれながらに亜麻色の髪色の人は、「日本人」ではないのだろうか。そんなことはないのだが、以上のような仮定を当然の真実と前提した瞬間、亜麻色の髪色の日本国籍者は「日本人」ではない、異物であると宣告したことを意味する。私たちの多くは、「日本人」と「外(国)人」という言葉を、不変の身体的特質の共通性によって定義される人間集団であると思っている。私たちは、実は自己と他者を「人種」というメガネを通して認識しているのであり、日本社会は人種という現象に相当にとりつかれた社会なのだ。そしてそこには、排除の論理が働いているのである。

 本書を読むと、この美容室のように今まで当たり前で自然なことと思われていた何気ない言葉や表現やふるまいが、実は「人種」という枠組みに深く根ざしており、人種に基づいてある特定の人々を排除し、見えない存在にし、戯画化し、否定しているということ、そしてそのことが意識されないほどに日本社会に強固に根ざしてしまっている慣行だということに、必ず気づかされるだろう。

アメリカ史研究を通じて日本のレイシズムを考える

 本書は、一橋大学社会学部の学生が執筆した、人種とレイシズムについての基本中の基本を学ぶための入門書である。執筆者はみな、同大教授の貴堂嘉之氏──アメリカ合衆国の歴史における人種および移民に関する研究の第一人者である──の学部ゼミおよび大学院ゼミに所属し、氏のもとでアメリカ史における人種という問題について学んでいる。アメリカは「人種のるつぼ」「多人種社会」と呼ばれるなど、人種によって社会が構成されているということは多くの人が知るところである。その理解はある意味では正しく、そのため歴史学や社会学、人類学、あるいは遺伝学などにおける人種という現象の研究は確かにアメリカが最先端である。本書の著者たちは、いわばそうした最先端の成果を吸収し、それを自分たちのものにしながら、本書を著したのである。

 評者もアメリカ史、とくに歴史的事象のジェンダー分析を専門としているが、授業でアメリカの歴史や現代社会について講義すると、受講者からのコメントで「人種問題のない日本と違い、アメリカでは……」という文言をたびたび見かける。だが本書は、アメリカにおける人種の歴史学や社会学などの蓄積を踏まえながら、その視点を日本社会に応用し、日本社会もまたアメリカとは違う形ではあるが人種化された社会であり、レイシズムに満ちた社会であることを明らかにしていく。

本書の構成

 本書は3部から構成されている。第1部「身近なこと編」では、まず日本にはレイシズムはないという思い込みが正され、さらにたたみかけるように近現代の日本における「人種」と「民族」という語の複雑な関係が解きほぐされ、差別があるとしても「人種」差別ではないという主張の陥穽を明らかにする。そして障がい者差別・部落差別・移民・難民をめぐる日本の問題をレイシズムと密接に関連した問題として考える視点を提示し、さらに身近な話題としての「ハーフ」という呼び方、「日本語がお上手ですね」という「褒め言葉」が持つ暴力性、そして何よりも「日本人」とは何か、誰のことなのか、という問いにも言及していく。

 第2部「そもそも編」では、「人種」という概念が、ある時期にある地域で新しく生み出された概念であることが明らかにされる。そして「人種」という概念が創り出され、流通し、再強化されていくメカニズムを、奴隷貿易や奴隷制や植民地支配といった大きな歴史から、日常の会話や大衆文化のなかで流布するステレオタイプの機能にいたるまで、さまざまな角度から解説している。

 新型コロナウィルス感染症のパンデミックの最中に、メディアには「人種によって感染率や感染後の症状の重さに違いがあり……」という表現が当たり前のように頻繁に登場していた。病のリスクと身体的特徴が結びつくのは自然なことに思えるため、無意識のうちに、人種とは人間の特質を定義する本質的な概念であり人類社会にとって普遍かつ不変の人間分類の基本となる生物学的特質である……かのように思ってしまう。だが、この第2部を読むと、気軽に「人種が違うから〜」という表現をすることの危険性に気づくことができるのではないだろうか。

 第3部「アメリカ編」では、奴隷制時代から現代までのアメリカ合衆国の歴史を、「人種」を軸にしながら探求していく。その叙述は、近年のアメリカ社会史研究の成果を可能な限り踏まえており、アメリカ史の基礎を学ぶための書としてもよくできている。

 日本ではテレビも新聞もインターネット上も、アメリカに関する情報は驚くほど溢れているが、この第3部ではまた、私たちの多くが現代アメリカの人種問題に関して無意識に、あるいは漠然と抱いている理解が、本当に適切なのか否かも丁寧に検証している。

 黒人の犯罪は多いから、厳しく取り締まられて当然では? キング牧師のおかげで人種差別は無くなったんじゃないのか? アファーマティブアクションは逆差別でしょう? 不法移民は危険な犯罪集団ではないか? トランプは生活が苦しくエリートから見捨てられた人々の不満を正しくすくい上げたから大統領になれたんだろう?

 そうした見方──これらは実は、そのような認識を抱く「日本人」の人種化されたマジョリティとしての意識と不可分である──のひとつひとつを丁寧に吟味していき、それが「人種」をめぐるアメリカの実態とかけ離れた誤解であることを示している。

 さらに、随所に挟まれたコラムは、日本でおなじみの「美白」という言葉から、「文化の盗用」という近年のアメリカで非常に論争の的になっている言葉、そしてインターセクショナリティのような近年注目される分析概念に至るまで、多様な争点をカバーしている。

 読者は、本文とコラムを通じて、一見たわいない日常に潜む深刻な問題から、学問的・政治的なキーワードに至るまで、人種とレイシズムを考えるための基本を知り、考えることを促されるつくりになっている。

 本書に収録されている著者たちの座談会を読むと、著者たちが他ならぬ自分たちの問題としてレイシズムに向き合い、考え、格闘した結果として本書が生まれたことがわかる。つまり本書は、レイシズムについて考えることの大切さを知り、そして学んだ──そして今も現在進行形で学んでいる──著者たちの経験を、追体験する書でもある。

 本書は人種とレイシズムをめぐるあらゆる議論を網羅するものではない。だが、本書は人種とレイシズムの問題を切実に考え、知りたいと願う読者にとって、格好の入り口である。本書を通過した読者は、基礎を踏まえて、さらにアメリカや日本の社会・文化・歴史・政治に存在するレイシズムの問題を深く批判的に探究し理解できるようになるだろう。そのための一助となる巻末の参考文献のリストは、日本語で読むことのできる入門書や学術書・論文を多数紹介しており、日本のレイシズム研究も相当進展しているということがわかる。本書の試みは、レイシズムのない社会をつくるための、大切な一歩となるはずである。

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