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批評は生きることとどうかかわるのか? 『批評と生きること』より 片岡大右

記事:晶文社

(『批評と生きること 「十番目のミューズ」の未来』片岡大右著、晶文社刊)
(『批評と生きること 「十番目のミューズ」の未来』片岡大右著、晶文社刊)

 「容赦ない批判」とその代償

 批評と生きること。本書を構成する、分量も分野もまちまちな多様な文章をまとめる作業のなかで、わたしは「批評」あるいは「批判」という行為そのものを主題化し、それと「生きること」──わたしたちがこの世界のなかで生を受け、生を保ち、さらには生きるに値する充実した経験を享受することといったすべての意味において──との関係をめぐる諸問題を、書物全体を緩やかに一貫する問いかけとして提示しようと考えました。

 「批評」とは何でしょうか。あるいは「批判」とは。日本語ではそれぞれ別のニュアンスを持つこの二つの言葉は、言うまでもなく西洋諸語では同じひとつの言葉です。ギリシア語のクリネインkrinein(判断する、選別する)に由来するこの語は、ふるいにかけるようにして、何らかの基準に基づき対象を選り分け、価値評価を行うことを含意している。

 こうした知的営みは、もちろん、人間が日々の生活のなかで好むと好まざるとにかかわらず行うものだと言えるでしょう。その限りにおいて、批評は時代も地域も超えて、生きることを支える必須の構成要素です。しかし批評あるいは批判は、しばしば近代という時代の──さらにまた、近代性の発信地とされる「西洋」の──刻印を帯びるものとされてきました。「われわれの時代はまことに批判の時代であり、すべてはその審問に服さなければならぬ」──カントは『純粋理性批判』(第一版、一七八一年)の序文でこう述べています。やはり一八世紀の後半、ドイツの哲学者の少し前に、フランスではヴォルテールが、その新しさを古代には知られていなかった十番目のミューズとして形象化しています。「ミューズは長いあいだ九人だった。健全な批評は十番目のミューズで、ずいぶん遅れてやって来た」(『新雑纂』、一七六五年)。

 批評的精神と近代とのこの結びつきは、近代がすぐれて危機の時代であることと関わっています。例えば加藤周一は、彼が編集長を務めた『世界大百科事典』(平凡社)で自ら執筆した数少ない項目のひとつ、「批評」(一九八五年)のなかで、「批評精神の歴史とは、危機的時代の歴史であるということができる」と述べつつ、ルネサンスおよび彼自身の生きた二〇世紀と並び、フランス革命に先立つ一八世紀を大きな画期として数えている。しかし批評あるいは批判と危機の関係については、別の見方も提出されてきました。有名な事例ですが、ドイツの歴史学者ラインハルト・コゼレックは、「啓蒙の世紀」に形成された公共空間における自由な批判の展開こそが、革命に至る危機を招いたのだと説いています(『批判と危機』、一九五九年)。ユルゲン・ハーバーマスが同書刊行後ただちに指摘したように、批判から危機へというこうした因果の筋道は、決して自明のものではない(「歴史哲学の批判のために」、一九六〇年)。それでも、批評的あるいは批判的精神の活性化による既成秩序の動揺、さらには転覆を憂慮するこの種の感覚が、今日に至るまで様々な場面において、人びとに共有されているのもまた事実でしょう。

 実際、批評または批判が時に帯びるこうした徹底性は、「ラディカル」を自認するデヴィッド・グレーバーのような知識人によっても懸念されています。グレーバーは、二〇一一年の「オキュパイ・ウォールストリート」への関与により活動家としての相貌に注目が集まっていた時期、米国の現代アート誌『アートフォーラム』(二〇一二年夏号)のインタビューに応えて、批判概念を綺麗さっぱり用済みにしようとするブリュノ・ラトゥール流の立場に反対しながらも、現実全体を拒絶の対象としかねない批判的精神の危うさを認めて、次のように語っていたのです。

 そうですね、批判の論理をあまりにも徹底的に適用するなら、こうしたほとんどグノーシス的な現実概念を生み出すことになって、もはや「世界は間違っている」と悟るような人間になるほかなくなってしまいます。
 それは知的には大変に実りあることかもしれませんが、恐るべき罠でもある。私はいつも、一八四三年のマルクスの有名な言葉を思い出します。「存在するすべてに対する容赦ない批判へ」というこの言葉は彼が二五歳で書いたもので、この年齢にはふさわしい。自分ももっと若い頃にはこんな風に考えていましたが、今はこうした容赦なさには代償が伴うと感じています。

 「容赦ない批判」に伴う代償、それこそがわたしたちの生、生きることにほかなりません。批評あるいは批判は、真に生きるに値する晴朗な未来を開くための道具であるというまさにそのことのために、今ここで営まれている人びとの生を、生きるに値しない何かとして退けてしまう。実際、批評と生きることの関係は、まずは不幸な対立として現れるように思われるのです。批評という行為が前提とする対象との距離は、当の対象をそのうちに含んで広がる生きとし生けるものたちの空間の外部へと批評する者を追いやり、批評する者はそれゆえ、自らが身を置いている社会のうちなる異質な存在として、当の社会のなかで生きることをやめる──あるいは禁じられる──ことになるのですから。ここで加藤周一を再び取り上げるなら、彼は批評的精神と生きることとのあいだのこうした緊張を、はっきりと自覚していました。

 加藤は、破局的な戦争へとのめり込んでいく自国の社会に対して鋭い批評意識を保っていた青春時代を振り返りながら、彼の明晰が同時代の社会を生きることの拒絶によって可能になっていたことを認め、さらにこうした性向が、戦後に旺盛な批評活動を展開した彼の基本的なあり方を予告していたものと考えて、このように記しています──「私はそもそものはじめから、生きていたのではなく、眺めていたのだ」(『羊の歌』、一九六八年)。

 付け加えて言うなら、社会の全体を、あたかも自分自身はその内側に存在していないかのように眺めることは、単に水平的な距離ではなく高みへの上昇を必要とします。加藤はこの点を自覚し、一九五四年には同じことを「高みの見物」として定式化していますが(「高みの見物について」)、言うまでもなくここには、それなりの程度の自虐が含まれている。自らの批評的診断に一定の自負を持ちながらも、それが生きることからの隔たりによって可能になっていること、それゆえ現に生きている人びとによって構成される社会に対して異質なものにとどまるだろうことへの苦い意識が、彼にこのような屈折した表現を選ばせているのです。

 しかしそれでは、世の中の論評だけで満足するのをやめ、自らそのただなかに身を投じて行動するなら、ひとはそうした「高み」から降りることができ、人びととともに生きることができるのでしょうか。かつてカール・マルクスは、世界を「解釈」するのに甘んじることなく、それを「変える」ことの重要性を説いたものです(「フォイエルバッハに関するテーゼ」、一八四五年)。

 しかし特定の原理に基づく世界変革の努力は、批判と生との関係をいっそう悲劇的なものにしかねません。現存の社会秩序全体を一枚岩の抑圧的なシステムとみなして、その全面的な転覆による「解放」を企てる努力は、現に営まれている人びとの生から生としての価値を剝奪するとともに、未来に向けての活動に身を捧げる当人の生をも抑圧せずにはいないからです。

 デヴィッド・グレーバーは、マルクス主義者に典型的なこの旧来の活動家文化をなんとかしようとして、解放的な未来社会を展望するのであれば、「あたかもすでに自由であるように」行動しなければならないのだと強調しました(『デモクラシー・プロジェクト』、二〇一三年)。同様に、彼は過去または未来に見出される理想とされてきた──それはすなわち、現在の生はこの豊かな共生と協働の可能性を奪われた不幸なものにすぎないことを意味します──「コミュニズム」を、現在を含めた歴史上のあらゆる時代における人類社会の必須の構成原理のひとつとして捉え直し、「基盤的コミュニズム」という再定式化を提唱したことで知られています(『負債論』、二〇一一年)。ただちに了解されるように、このような主張は、混じり気のない純粋なコミュニズムが達成され、真の解放が成就する約束の時の可能性を、綺麗さっぱり退けることにつながります。彼自身が繰り返し嘆いていたことですが、ラディカルな活動家の一面を終生保持しながらも、グレーバーの所説が少なからずの革命志向の活動家たちを失望させ、大いに憎まれてきたのも無理はありません。没後刊行の『万物の黎明』(二〇二一年、D・ウェングロウとの共著)に至るまで一貫しているこのような姿勢を通して、彼は批判と生きることを、想像的な過去においてでも絶対的な解放の未来においてでもなく現在において、結び合わせようとしたのだと言えるでしょう。

 

生きることの活性化としての批評

 もちろん、現在の現実を拒絶しないというこのことは、現状維持のために主張されているのではありません。むしろグレーバーによれば、現在の現実のうちにあまりにも堅固で逃れがたい構造を認めることは、当の構造を解体するための革命的努力に向けて人びとを活気づけるというよりも、単に希望を奪うことにつながってしまう。ニカ・ドゥブロフスキーとの共著になる韓国映画『パラサイト』のレビューでは、こうした逆説が指摘されつつ、批判の役割の再定義が試みられています。

 「『パラサイト』はそれ自体が驚くべき建築作品であり、独特のあり方で実に美しい」──このように述べることでポン・ジュノ監督作品の傑作性を認めながらも、グレーバーとドゥブロフスキーは、自由で創意に満ちたもののように見えた貧しい一家の企みが、結局は彼らを既定の役割へと押し戻すことで終わるという、いっさいの希望の余地を残さないこの作品の展開に不満げな様子です。彼らはその不満の因って来たるところを説明して、ここには「社会批判の外見」が見出されるにすぎないのだ、と述べている。どういうことでしょうか。

 批判はしばしば、何らかの全体的な構造の析出と結びつけられます。個々の事象の表面にとどまることなく、その基盤をなす大きな枠組みを露呈させること。たしかにそれは、批判の重要な役割のひとつでしょう。それではグレーバーとドゥブロフスキーは、『パラサイト』が構造の把握を不十分にしか行っていないとみなし、その点を不満に感じているのかと言えば、決してそうではありません。むしろ著者らは、この映画がすべてを厳格に構造に従わせすぎていること、そのため登場人物に自律的な──構造から相対的に独立の──行動の余地をまったく残していないことをもって、批判の不足とみなしているのです。

 批判は、単なる構造の暴露にとどまっていることはできない。批判にはまた、堅固なものに見える構造のそこここに余白や空隙を探り当て、人びとが自律性を発揮することで新しい何かを生み出していけることを──つまり希望の現実性を──示唆することができる。そのとき、わたしたちが生きる社会は、緊密に設計された単一の構築物というよりも、多様な人びとの声が織りなす乱雑で、豊かで、自由なクレイジーキルトのような何かに見えてくるだろう。

 著者らはこうした立場から、富裕な一家の豪邸と貧しい一家の半地下という居住空間がすべてを規定しているかのような『パラサイト』の内的論理のうちに、ピエール・ブルデューの理論に通じるあまりにも厳格な空間的決定論を見出しています。構造のなかで割り当てられた機能を遂行する存在へと人間を還元してしまう傾向がある。それに対して著者らは、こうした理論には、ミハイル・バフチンがドストエフスキー研究のなかで展開した対話理論を参照し、作中人物たちの発話は作者が構築したひとつの構造に従うことなく「それぞれが独立した宇宙」となりうることを強調して、次のように述べるのです。「登場人物の非常に多くがまったく断固として独自の存在となって、彼らそれぞれが少なくとも潜在的にはただ自分だけでひとつの宇宙を体現している時に、批判的な質が生じるのだ」。

 バフチンの対話理論は、今日では文学研究の分野にとどまらず、教育や精神医療など、様々な分野で注目され応用が試みられています。彼の理論は、人間を──どんな脆弱さや困難を抱えていようとも──独立したひとつの声を発しうる存在として認めるとともに、そうした独立性は最初から対話的関係のなかに組み込まれていること、むしろそうした対話的関係によってこそ可能になっていることを説いている。バフチンにあっては、対話することはそのまま、生きることと重なり合っているのです(桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』岩波書店、二〇二一年)。こうして見るなら、バフチン的意味での対話関係を表現するところに「批判的質」を見出すというグレーバーとドゥブロフスキーが、批判あるいは批評を、生きることとの関係で捉え直していることがわかるでしょう。

 ここで興味深いのは、先ほど引用した『アートフォーラム』での発言とは異なって、この『パラサイト』論では問題は批判の過剰というよりも批判の不足であるとされていることです。十分に展開されない批判は、現実のうちに単一の、ほとんど逃れがたいもののように思われる構造を見出して終わる。しかし批判の作業をより発展させるなら、そうした構造は現実を隙間なく支配しているわけではないこと、それゆえ人びとには自由の余地が残されていることが明らかになるだろう、というわけです。このように捉え直すなら、批判または批評は、現在の生を押しつぶすのではなく、それが現に持っている力を正当に認めるとともにいっそう活性化させる方法として理解されることになります。

 

「強化された個人的経験」としての作品経験

 グレーバーとドゥブロフスキーであれ、バフチンであれ、映画や小説というフィクション作品の登場人物をあたかも現実の人物であるかのようにみなし、芸術批評と社会批評の境界線をまたいだ議論を展開しています。実際、作品を対象とする批評においても、問題になるのは同じ、高みに立つことと生きることのあいだの緊張にほかなりません。何らかの原理に立脚して作品全体を見下ろし、特定の枠組みを当てはめることは、そうした枠組みからはこぼれ落ちるもののすべて──その作品の生そのもの──から価値を奪い去ることにつながってしまう。

 こうした種類の批評は、特にいわゆる「エンターテインメント」に分類される作品に対して行われがちです。かつてテオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーは、近代資本主義が生み出した「文化産業」による「大衆欺瞞」を論じました(『啓蒙の弁証法』、一九四七年)。今日におけるこうした議論の後裔は、ポピュラーカルチャーの産物のそこここに「新自由主義」的な世界観・人間観の正当化を見出していくたぐいの批評だと言えるでしょう。そこに一定の啓発的な意義があるのは疑いえないことです。それでも、そうした批評が時にある種の傲慢な裁断の印象によって受け止められることにも、それはそれで一定の理由があると言うことができる。

 というのも、米国産の映画やテレビドラマであれ、日本のテレビアニメやマンガであれ、それらが巨大な商業的成功を果たして世界の共通文化を形成している現実を前にして、そうしたものはまったく、新自由主義段階の資本主義による惑星規模の大衆馴致でしかないと考えることはなかなか難しいからです。商業主義的な諸々の限界があるのはたしかだとしても、それにもかかわらずこうした巨大な成功の背景にはやはり、国境をまたいだ人間本性に訴える何かが見出されるのだと認めることから始めるべきでしょう。広義の芸術批評を収めた本書の第二部の大部分を占める、多少とも長い三つの論考がいずれも、米国と日本のポピュラーカルチャーの諸作品を対象としているのはこうした理由に拠っています。

 第二部冒頭の『ゲーム・オブ・スローンズ』論でも取り上げたように、フランスの哲学者サンドラ・ロジエは、目覚ましい質的向上を遂げた連続テレビドラマ(とりわけ米国産の)を、二十世紀における映画を引き継ぐ「二一世紀の哲学的芸術」と評しています。そんな彼女が、かつてのアドルノ流の文化産業論やその後裔と言うべきタイプの批評とはっきりと距離を取っているのは言うまでもありません(『連続ドラマのなかの人生』、二〇一九年、序文)。

「大衆(マス)」文化(カルチャー)とは視聴者を疎外し、操作し、中毒化するものだとみなすたぐいの見方ほど、ここでのわたしの作業と無縁なものはない〔…〕。批評という外見のもとに、そこにあるのは一般の人びとに対する侮蔑的姿勢であって、この姿勢が根本的に反民主主義的なのは、そこでは「批評家」自身はこうした疎外を共有していないということが前提とされているからだ。ポピュラーカルチャーを真剣に受け止めるというアプローチが持っている力は、一般の人びとはただ大人しく操作されたりしないだけの知性の持ち主だと考えるところにある。ポピュラーカルチャーはわたしにとって、マスカルチャーではない。グローバルで画一的な資本主義によって生み出され、まったく当然に社会批判または経済批判の分析対象となるような、マスカルチャーではないのだ。 

 第二部の第三の論考である『鬼滅の刃』論で説いたように、ロジエのアプローチは日本のマンガ文化を論じる際にも示唆するところが大きいとわたしは考えています。つまりテレビドラマであれマンガであれ、それらのなかの優れた作品は、何か出来合いの概念図式によって裁断されるような──少なくともそうした扱いのみによって片付けられるような──客体ではもはやない。むしろそれらの作品に「内在する知性」から、わたしたちは多くを学ぶことができる。『ゲーム・オブ・スローンズ』がマキァヴェッリ流の政治的リアリズムを前景化することで始まりながら、そうした「レアルポリティーク」の限界をそこここで問い直していったように、また『鬼滅の刃』が「ケア」や「エンパシー」といった概念が注目を集めるなかで読まれ(見られ)ながらも、それらの主題と殺しの主題を時に穏やかならざるやり方で絡み合わせ続けたように、そうした作品は批評家や学者が既存の概念を一般向けに説明するのに都合がよい「事例の宝庫」を提供するだけの存在ではなく、むしろある概念を具体的な生のなかで展開させた時に生じるだろう困難や意想外の帰結を描き出すことで、読者や視聴者を決定的な答えのない問いかけの経験へと導き入れるのです。

 作品経験はわたしたちの日々の生活の一部をなし、生きることの経験とわかちがたく結びついている。そしてわたしたちが「実生活」を通して得た知見を基準として作品を鑑賞し判断を下す以上に、作品経験から得たものがわたしたちの日々の生を豊かに照らし出すことも決して珍しくはない。ロジエが『ゲーム・オブ・スローンズ』に限らない連続ドラマの経験を、「強化された個人的経験」と呼んでいるのはそのためです。

 

批判/批評をめぐる二つのアプローチ

 さて、先ほどグレーバーの批判ないし批評理解を検討した際、わたしたちはそこに二つのアプローチの併存を見出しました。「容赦ない批判」の過剰さを警戒するのか、それとも、そうした批判は不十分な、あるいは欠陥を抱えた批判にすぎないとして、批判を再定義するのか。

 グレーバーは先ほど引いた二〇一二年のインタビューで、どんな社会も複数の原理の混淆からなっていることを説いたマルセル・モースの思想を紹介したのちに、「そこから出発して考えるなら、批判の本質とはシステムの全体性を暴露することではないことになる」(強調原文)と述べ、全体性を相手取るマルクス的批判とは異なるモース的批判の可能性を示唆しています。とはいえ、グレーバーは批判の再定義をめぐるこうした議論を、それほど理論的に追究してきたとは言えません。

 こうした批判の二類型をめぐる考察を真正面から展開したのが、フランスの社会学者リュック・ボルタンスキーです。彼は批判をめぐるこれら二つのアプローチの双方に順を追って深く関わったのち、やがて両者の調停を模索し、その理論的成果を『批判について』(二〇〇九年)と題する著作にまとめている。私見では、批判または批評をめぐる思索にとって、これほど有益な著作はありません。

 ボルタンスキーは、一九六〇年代から七〇年代にかけ、ピエール・ブルデューの研究グループに身を置いていましたが、やがて師の「批判社会学」とは袂を分かって、八〇年代を通し、彼自身の研究グループにおいて「批判の(プラグマティック)社会学」を探究するようになりました。ボルタンスキーによればブルデューの社会学は、社会全体を見下ろし支配と被支配の構造を暴き立てる力──それこそが批判の力能です──を自派の社会学者に認める一方、日常を生きる人びとを単に構造によって規定され、それによって動かされるだけの存在とみなすことで、彼らから自律的行為の余地を奪ってしまう傾向がある。

 まさにグレーバーがマルクスを引きながらその負の側面を懸念した「容赦ない」批判の典型と言うこともできますが、八〇年代のボルタンスキーは、ブルデュー派から一線を画して「ほどほどの」批判を掲げたのではなく、別のかたちで批判を捉え直していきました。彼の研究グループが発展させた社会学においては、日常を生きる人びとは誰もがアクターであり、日々直面する様々な問題を解決すべく、社会を構成する複数の原理のあいだを行き交いながら、交渉を行うものとされる。垂直の高みからなされる構造の暴露ではなく、水平的な関係のなかでのこうした営みを批判として再定義することで、ボルタンスキーは人びとの日常的な生の側へと批判を引き寄せようとしたのです。

 一九九一年の『正当化の理論』に結実するこうした批判概念の捉え直しの意義は、今日なお失われてはいません。しかしボルタンスキーは、九〇年代半ば以降にブルデュー派の社会学の一定の再評価へと転じ、それと自らの社会学の調停を課題とするようになる。冷戦終焉後に顕在化した現代資本主義の活力とそれに伴う経済的格差の拡大が、大きな構造的枠組みを大上段から捉えるたぐいの批判を再評価する必要性を実感させたからです。

 実際、たとえ人びとの日々の生からいったん離れることになろうとも、全体を把握する試みの必要性は否定しようもありません。ボルタンスキーは、日常のなかで誰もが行使しているプラグマティックな批判的営みに注目する自らの社会学理論の成果を擁護しながらも、こうした批判が与えられた状況の枠内にとどまりがちだという限界を持つことを率直に認め、それに比べると、全体を見下ろす観点に立つ「批判社会学」のほうが、所与の現実の相対化を促すことで、人びとに現状を打開するためのいっそう大きな活力を与えることができた側面があると論じています。加藤周一の「高みの見物」にしても、戦時中に学生またはそれに準じる無力な立場であり、戦後は著名だとは言っても言論の徒にすぎなかった彼にとって、また彼の著作に活気づけられながら世の中に注ぐ眼差しを研ぎ澄ましていた読者たちにとって、こうして高所からの眺望を得ることが、平地での困難な生を生き抜くかけがえのない糧となっていたことは明らかでしょう。二つの批判は相補いつつ、生きることの支えとなるのです。

 

「世界の不確実性をつかみ取ること」

 『批判について』の著者によれば、「社会的活動は恒常的に批判的なものではないし、そうであることはできない」。むしろ、社会をなして生きるなかで、人びとは少なからずの時間を「実際的」な態度で、つまり争点を顕在化させないように配慮しながら過ごしている。これはこれで、日々を生きるための重要な知恵であるのは間違いありません。けれども、そうして共有される社会的構築物としての「現実」は、本質的な脆弱さを抱え込んでいる。やり過ごしてきた不安の種が耐え難いほどに大きくなるなら、そんな現実の輪郭は揺らぎ、「世界」が垣間見られることになります。

 「生の流れ」とも言い換えられる世界、この絶えざる変化の場は、滞りのない平穏な生活にとっては脅威と言えるかもしれません。けれども、時として、わたしたちがそのなかを生きる現実のほうこそが、わたしたちの生を抑圧し、生きることの実感を奪い去る暴力的な環境として感じられることがある。そうした際には、「ラディカルな不確実性」の場としての世界に、ひととき身をさらすことが役に立つかもしれないのです。「批判は、世界の不確実性をつかみ取ることで、秩序維持の諸装置を恒常的な脅威にさらしていく」──ボルタンスキーはこのように、批判または批評の営みの最もラディカルな局面に光を当てています。とは言えもちろん、脅威の全面化は避けられなければならず、やがては相対的に安定した現実が回復されなければならない。この修復や改善、調整の作業もまた、批判の役割にほかなりません。こうして批判または批評は、社会をなしながらも単独的な生を生きるわたしたちが抱える根本的な緊張に根ざした営みとして、生きることそのものをひとつならずのやり方で支えているのです。

 

 

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