「負債論」で一石 「本当に自由な社会」求めて
世界的に著名な英国在住の米国知識人、デヴィッド・グレーバーが59歳で急逝した。王道を歩む人類学者として、この分野の拠点ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの教授職にあった彼は、より公正な世界を訴える2011年のウォール街占拠への関与によって、国際的に知られた活動家でもあった。
グレーバーは学問と政治を峻別(しゅんべつ)し、「私をアナキスト人類学者と呼ばないでください」と絶えず求めていたけれど、とはいえ二つの領域はまったく無縁だったのではない。
人類学とは彼にとって、「人間とはなにか、人間社会とはなにか、またはどのようなものでありうるのか」(『負債論』、邦訳16年)を探究する学問だった。マダガスカルのような他なる文化地域に赴いたのも、人間一般の本性をより広く深く理解するためにほかならない。
そんな彼が関わったからこそ、ウォール街占拠では、「私たちは99%だ」という驚くほど包括的なスローガンが掲げられた。もちろん彼は、富と権力の集中する1%以外の残りの99%の内部にも、様々な隔たりや対立や闘争が存在することを認めないのではない。けれどもグレーバーはどんな人間にも共通の本性が備わっていると確信し、その探究をすべての仕事の中心に据えていた。
今年夏に翻訳が出た話題作『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』は、占拠参加者らがウォール街勤めの人びとと交わした対話を背景に生まれた著作だ。後者はしばしば自分たちの仕事の空虚さを自覚し、魂に傷を負っていた。こうしてグレーバーは、社会を回すのに必須でありながら低処遇の「エッセンシャルワーカー」と高処遇のホワイトカラーを対立させず、両者がともに解放される「本当に自由な社会」を求めた。
対立をまたいだ共通性は、やはり今年翻訳刊行の『民主主義の非西洋起源について』でも探究されている。民主主義は古代ギリシア起源ではない。とはいえ、他の諸文明のもとでより立派に体現されてきたわけでもない。それはむしろ、文明と文明、文化と文化の「あいだの空間」で、人びとが非暴力的な共存を希求する中に生まれるのだとグレーバーは説く。民主主義とは、意見を異にする人びとが粘り強い交渉を通して行う合意形成のプロセスにほかならないのだ。賛否の分断を生む古代ギリシアの多数決方式は、むしろ特殊事例にすぎない。
彼によれば、互いを理解し配慮するという人間一般の「ケア的」本性が共同体を可能にする。こうした楽観性を、彼は誠実に生きたように見える。
グレーバーは人間的に尊重しあえるなら、立場を超えた対話をも拒まなかった。米共和党支持者として知られるシリコンバレーの顔役ピーター・ティールとの6年前の対談は、今なお話題の種だ。自由を平等に分かちあえるかという論点では対立しても、二人には共通の願いがあった――空飛ぶ車の実現という願いが(『官僚制のユートピア』、邦訳17年)。
元SF少年のグレーバーは、基本的に、技術革新の味方だった。単純な進歩史観を退ける一方、原始の自由と以後の堕落といった説も採らず、技術発展の先に自由と平等が両立しうるのではないかと展望していた。『負債論』では過去五千年の歴史をひもときながら、貸し借りに還元されないつながりを人間の本性ととらえ、債務帳消しの運動を提起した。新たな代表作となるはずの遺作(共著、来年原著刊)は実に五万年の時空を探索し、『サピエンス全史』の歴史学者ハラリに典型的な、陰鬱(いんうつ)な未来像を打ち破ろうとする野心的な仕事だ。
何世紀も生きられるとしても決して退屈しない、それなら新しい言語や楽器や核物理学の勉強を始めたいと語った人類学者の早すぎる死を、筆者はまだ適切に受け止められずにいる。=朝日新聞2020年9月16日掲載