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生きることは香りを感じること マチルド・ローランさん(カルティエ専属調香師)

記事:白水社

カルティエの調香師が、あなたの感性を磨く! 『マチルド・ローランの調香術──香水を感じるための13章』(白水社刊)は、嗅覚の美について探求した、しなやかに生きる女性の自伝的エッセイ。全13章からなる「香りの哲学」。
カルティエの調香師が、あなたの感性を磨く! 『マチルド・ローランの調香術──香水を感じるための13章』(白水社刊)は、嗅覚の美について探求した、しなやかに生きる女性の自伝的エッセイ。全13章からなる「香りの哲学」。

『マチルド・ローランの調香術──香水を感じるための13章』(白水社刊)
『マチルド・ローランの調香術──香水を感じるための13章』(白水社刊)

 

なぜ香水のおかげで
人は人らしくありうるのか

「生きることは息をすること。
息をすることは香りを感じること。
だから、生きることは香りを感じること。」

 わたしはこの表現によって、嗅覚が我々の五感のなかで占めている特別な地位を説明することがしばしばあります。嗅覚は、生きるのに不可欠な呼吸と直接結びついているからです。嗅覚は、我々の存在そのものと内在的につながっています。嗅覚は他の感覚を脳まで導き、また、記憶に関しても最も重要な役割を果たしています。嗅覚とは、生そのものの感覚なのです。

 

【Mathilde Laurent, nez de Cartier, nous reçoit dans son nouveau laboratoire】

 

 コロナが明らかにしたのは、我々の生活にとって嗅覚がどれだけ本質的か、それを失うことがどれだけ深刻かということです。嗅覚障害を患った場合、重篤なうつ状態に陥ってしまうこともあります。ウィルスのせいで一時的に嗅覚を失ってしまったわたしの友人の一人は、自分自身の人生から自らが放り出されてしまったような、てついた心持ちになったと話してくれました。自分の人生が目の前で流れていくのを、船窓から眺めるように傍観していたのです。生きることがすなわち匂いを感じることであるならば、その能力が失われた際に、生きた心地がしないのは当然だと言えるでしょう。つまるところ嗅覚とは、我々に生きる実感を与えてくれるものなのです。自分のなかに生を「感じる」こと。今日、嗅覚を失わなければ人々はそれに気がつかないとは驚くべきことではありますが。

Anosmia or smell blindness, loss of the ability to smell, one of the possible symptoms of covid-19, infectious disease caused by corona virus.[original photo: Nenad – stock.adobe.com]
Anosmia or smell blindness, loss of the ability to smell, one of the possible symptoms of covid-19, infectious disease caused by corona virus.[original photo: Nenad – stock.adobe.com]

 人類がここまで進化した時点において、脳が重要視されすぎるがゆえに、必要以上に理性を駆り出す状況に絶えず置かれ、燃え尽きバーンアウト状態になってしまうことがあります。もしも我々が、現在最も活用している、脳のなかでも分析的な分野に連携している視覚と聴覚しか知覚として持ち合わせていなかったら、もしかしたら生きるロボットのようになってしまったかもしれません。肉体的な能力と理性を働かせる能力しか持たない、身体を伴ったコンピュータのような存在。そうならずに、わたしたちが感情と直感を備えた動物であり続けることができているのは、嗅覚のおかげなのです。我々は今日、匂いをぐ能力は、脳の感情と直感をつかさどる複数の領域を刺激し、まさにそれこそがコンピュータに欠けている部分なのだと知っています。コンピュータは我々のように見たり音を捉えたりすることができ、なかには匂いを「嗅ぐ」ことができるものもありますが、そのいずれとして、人間のように直感的に物事を感じとったり、心を震わせたりはしません。ロボットは、まるで生きているように見えたとしても、自分たちが生きているとは「感じ」はしないのです。幸いなことに、そこに至るまでにはまだ遠い道のりを必要とするでしょう。

Two sets of icons representing the five senses[original photo: form and form – stock.adobe.com]
Two sets of icons representing the five senses[original photo: form and form – stock.adobe.com]

人工知能に相対したとき、嗅覚は我々の人間性の最後のとりでとなっているのかもしれません。この感覚は我々の身体の奥深くと直接に結びつき、我々を動物的なものに送り戻し、自然と切り離されていると感じるのではなく、その一部だと感じとる助けになってくれるのです。我々は自分たちがどこにいて、何者であるかを感じ、自分たちがどこで何を体験しているかを感じます。人々が過度にコンタクトを取り合う割には、人間性に欠け何もかもが人工的であるこの世界において、香水は特別な役割を担います。香水は、人が人らしくある助けになります。つまり、美しさや人生を前にして、心の底から、体の奥から感動できる存在であり続けさせてくれるのです。

Woman enjoying the smell of natural herbal essential perfume oil for aromatherapy, beauty skin care and homeopathy[original photo: Goffkein – stock.adobe.com]
Woman enjoying the smell of natural herbal essential perfume oil for aromatherapy, beauty skin care and homeopathy[original photo: Goffkein – stock.adobe.com]

 哲学者のなかには、シャルル・ペパンのように、カント的な見地をさらに広げ、美は我々を救うことができると言い切る人もいます。わたしもそれを心から信じています。美は、それを前にしたとき、我々の存在を高めてくれるからです。美は五感すべてに働きかけるべきなのです。これまで我々は世界の視覚的な美や音の美しさだけにかまけてきましたが、このままでは人類を救うことはできないでしょう。その間にも、世界は汚染され、破壊され、臭気を発しつつあるというのに。確かに、わたしは、誰もが匂いの個人的な好き嫌いを越える努力をする必要があると考えていますし、調香師として、自分の鼻先に現われるあらゆる匂いを偏見なく受け入れます。もちろん、ゴミ箱の匂いや車のマフラーからの匂いは、そこに存在する分解作用のせいで受け入れがたいものですし、読者の方々にとっても同様でしょう。そこには自己保存本能が働いています。嗅覚は警戒を促す感覚です。いつの時代にも、嗅覚のおかげで、我々は、毒や死骸、排泄物のように自分たちの生命を奪いかねないものを口に入れるのを避けることができました。それは、我々の脳が、価値判断からではなく生存本能からある種の匂い分子を排除していることを示しています。まさにその本能的な部分によって、嗅覚は、比類ない喜びと興奮をもわたしにもたらすのです。知的な喜びではなく、純粋な、子供っぽい幸福。この生の衝動はわたしが調香師として取るべき道と態度を堅固にしました。わたしは自分の調香する香水を通じて、この喜びを常に分かち合おうと思ったのです。

Smiling teenage girls smelling tomatoes in cooking class[original photo: Cavan for Adobe – stock.adobe.com]
Smiling teenage girls smelling tomatoes in cooking class[original photo: Cavan for Adobe – stock.adobe.com]

 これまでの時代とは異なり、今日、香水は神聖なものとして存在しているわけでも、衛生上の理由から使用されるのでもありません。生殖のためでもありません。香水を、自分の体臭を隠したり、人を魅了するのに使う人がいるとすれば、もちろんそれに越したことはありませんが、香水の人生における本質的な意義はそこにはないのです。現代人が香水を愛し、毎日のように使用し、香水専門の業界が存在するのは、香水が、嗅覚を通して美しさを感じる要求に応えているからだとわたしは考えています。香水は、我々の存在のこの分野に働きかける唯一のクリエイションです。仮に香水というものがまったく存在しなかったとして、ある日突然、自然世界から香りの分子を抽出できることを発見したとしましょう。我々はこの創作分野にすっかり虜になり、鼻先に展開する美の魅力から逃れられなくなることでしょう。人類はいつでも、香りの世界に浸ることを必要としてきました。

 

【著者インタビュー:Les Grands entretiens : Mathilde Laurent】

 

 香水は、我々をより良き存在にしてくれるとわたしは信じています。人間性を高めるという意味でです。香りを通じて、我々は他者をより良く受け入れることができます。「あの人とはフィーリングが合わない」というような表現はよく知られています。他者を感じることを学び、早急に判断してしまうのではなく、その存在を受け入れることは、他者と調和を持って生きるための条件です。世界中のさまざまな文化や美的感覚からインスピレーションを受けた、想像的で大胆な香水が我々に教えてくれるのはまさにそういったことなのです。香水とは、人を排除しようとする気持ちを克服させてくれる手段であり、高位に象徴的なアプローチを構成します。それは、自分と異なる人間を受け入れるというアプローチです。わたしにとって、匂いに自らを開くことは、さまざまな文化、色彩、宗教や生活習慣、またジェンダーの多様性に自己を開くことに他なりません。

Senior male couple smelling flowers[original photo: Cultura Creative – stock.adobe.com]
Senior male couple smelling flowers[original photo: Cultura Creative – stock.adobe.com]

 このような理由から、わたしは、開かれた、広大な、多様な香水の世界を擁護します。そこでは、誰もが喜びを見出すことができ、自分の個人的な好き嫌いを次第に乗り越えることができます。わたしがこの道に進もうと思ったのは、既存の香り、人に好まれるとわかりきった香りを提供するためではありません。わたしが考える香水とは、世界への扉を開き、自由を教える芸術であり、絶えず発展し、人を高みに引き上げるものなのです。香水の社会的・人間的理解をたゆみなく続け、この実践をすべての人に開き、芸術の域までに高めたならば、そこに創造性が花開くことでしょう。そしてそのクリエイションは、我々の魂や行ない、我々の社会をより良きものにし、共存と平和を容易にしてくれることでしょう。

 

 ⦿ カルティエの《レ ズール ドゥ パルファン》〔香りの時間〕コレクションのイメージにならって、この本のそれぞれの章の数字はランダムに与えられています。それは、読者の皆さんに自由に読んでもらいたいという思いからです。それから、「九番目の時間」は香水としてまだ存在していないため、第九章はこの本にはありません。

 

【『マチルド・ローランの調香術──香水を感じるための13章』(白水社)所収「XIII なぜ香水のおかげで人は人らしくありうるのか」より全文紹介】

『マチルド・ローランの調香術──香水を感じるための13章』(白水社)目次
『マチルド・ローランの調香術──香水を感じるための13章』(白水社)目次

 

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