料理の苦手意識を育てるものはなにか? 自炊料理家・山口祐加×哲学研究者・永井玲衣対談(前編)
記事:晶文社
記事:晶文社
山口 永井さんのことは『BRUTUS』で知ったんです。実は私、「ただいること」や「じっとしてること」が苦手で……。ちょっと掃除しようかなとか、暇だからお茶でもしようかなと、すぐに何かしたくなっちゃうんですね。とにかくちょこちょこ動いてはなんか疲れる、みたいなことをいつもやってるんですけど。その雑誌の特集で永井さんの話していた、「今の世の中は常に何かせずにはいられない」みたいなフレーズがすごく頭に残って。いちどお話ししてみたいなと思ったので、永井さんのやっていたイベントに行って話しかけたんです。そのとき、私のVoicyにお呼びしたことからご縁が始まって。その後も何度かイベントでごいっしょさせていただいてます。
偶然ですが、永井さんの『水中の哲学者』っていうご本も、今回私が出した本も同じ出版社から出ていて、装丁家さんも同じっていう。永井さんが91年生まれ、私が92年生まれなので、ほぼ同じ時代を生きてきて、いろいろ背景も似てるんですよね。
永井 山口さんとはこの前、料理を作った後に、料理で問いを立てて哲学対話するっていうイベントをやりましたよね。料理って私には程遠いものに感じてたんですけど、そのときとてもおもしろい問いが出ました。
山口 そうでしたね。例えば、「ふだんから料理してます」って言うと「すごい!」って返されるのはなぜだろう? とか、料理をしているところを見られるのってなんで恥ずかしいんだろう? とか……。
料理を取り巻く話題ってあまりにもノウハウの話に寄りすぎてると思うんです。旬な野菜の美味しい使い方であったり、節約の方法だったり、どうやったらお肉が柔らかくなるかとか……。
でも、日々私たちが感じている問題って、「今日はあまり料理を作りたくないな」みたいな気持ちだったり、スーパーでキャベツを半分買うのか、1/4を買うのかどうしようみたいなことだったりするじゃないですか。ノウハウじゃない部分でモヤモヤしていて、言語化せずにやり過ごしていることが、ほんとうにたくさんあると思います。なので、そこを「ちょっとここわからないんですけど」って永井さんに問いとして持っていって、一緒に掘ってもらうみたいなことをやらせてもらったんですよね。
永井 山口さんがお話ししていたことで印象に残っているのは、料理っていろんな課題やテーマにつながるというお話かな。環境問題や健康、食の安全、ジェンダー……『自分のために料理を作る』に書かれていることだとケアもそう。「料理ができない」「自分のために料理ができない」っていうときは、何かしらその人にケアが必要な状況がおとずれてるかもしれないっていう。実は料理って社会のこととすごく繋がってるんだなあって、奥行きをみせてもらった気がしています。
山口 永井さんは今まで考えたこともなかった?
永井 そうですね。料理って「めんどくさい」って思いながら、一人でボソボソと台所に立つことだと思ってました。でも、山口さんと一緒に対話の場を開くと問いが無限に出てくるわけです。料理ってこんなにも横断的に話せる場所だったんだっていうのは、山口さんに教えてもらったかな。それってさっき言ってたノウハウの話でもないじゃないですか。
山口 そうですね。この本でも、ノウハウはちょっと出てくるぐらいですね。
永井 ちょっとだけなんですよね。大半が対話になってるじゃないですか。
山口 はい。
永井 今までこんな本を読んだことなかった。実際に悩みを抱えている人たちと関わって一緒になって考えてくれるっていう。そんな探求的な料理家さんを私、他に知らなくて。
山口 ありがとうございます。私の仕事ってレシピを求められるんですよ。「自炊料理家」っていうちょっと変な肩書きをつけてる私でも求められるんです。レシピって音楽市場みたいなもので、常に新しい音楽が出てくるみたいに、レシピを作り続けることも必要なんです……でもそれって、ひたすら作ってはリリースしていくみたいにある種孤独な作業で、「作りました」ってリプライがもらえることも、そこまでたくさんあるわけじゃないんですよね。だから、今回この本で目の前にいる人の料理の悩みみたいなものに触れて、この人はこれで悩んでるかもなって、「このへんが凝ってますか?」って聞きながら進めていくと、少しずつその人が「なんか、できるかも」みたいに変わっていくのがおもしろくて。一人ひとり納得していく感じというか、レシピには経験知みたいなものってあまり入れられないんです。だからこの本では、そこについて喋りたかった感じですね。
永井 私がやっている実践とも山口さんの活動は近いと思うな。私は「哲学」っていうものが、偉そうになりすぎちゃってると思ってるんですね。かっこいいことをいっぱい知っていないとダメで、正解や真理があって、小難しいもので、みたいな。
でも、人々の持ってる問いって、もっと等身大で体温があるようなものなんですよね。それを私は「手のひらサイズの哲学」って呼んでるんですけど、山口さんの料理も「手のひらサイズ」だと思います。まだ誰もしっかり言ってなかったり、名前がなかったりとかするようなもので、だけど確かにあるもの。それを「あるじゃん」「無視しないでね」って言うところから始めようとしてますよね。
もう一つ、料理のように個人化されがちなものを、社会やみんなのものにしていくっていうことは、私自身もやりたいことで。「問い」もそう。結局、その人の悩みでしょってすぐに個人化されがちというか。
例えばですけど、「なぜ生きてるんだろう」って言うと、「大変だねー」「悩みがあるんだね」「病んでるね」って言われて終わっちゃうみたいなことってあるじゃないですか……。でもそれって、人はなぜ生きるのかっていう問いですよね。みんなで背負える問いだし、あるいは、なぜ生きなきゃいけないんだろうってその人が苦しい思いをしていたとするなら、それを問わせる社会って何? ということまで考えたいんです。単に哲学して楽しいっていう、無邪気さで終わらせたくない感覚がずっとあって。山口さんも、美味しいごはんを食べたらほっこりして幸せだね、で終わらせませんよね。個人の問題を陽のあたる場所にちゃんと持ってきたうえで、なぜ起きてるんだろうってことを一緒に考えようとするっていうのが、私の活動と似てると思うんです。
山口 先月ヨーロッパに行って、人の家に遊びに行かせてもらって料理するところなんかを見させてもらってきたんですけど、あらためて、日本人はあまりにも家の中でいろいろな種類のものを作りすぎてるなっていうことを思いました。それを趣味として作るかぎりは全然いいんですけど、「するべきこと」になっちゃってることがありますよね。
家庭料理って、ほんとうはもっと適当でいいはずなのに、この50年くらいの間に高度成長で豊かになって品数の多くなった家庭料理のイメージが切り取られて、幻想としてあるだけなんじゃないか。みなさんが家庭料理としてイメージするハンバーグ、オムライス、肉じゃが、コロッケ……みたいな料理に、ほうれん草のおひたしと冷奴が副菜でついて、味噌汁がついて、ごはんがついて、みたいな食事を毎日している家庭がいったいどれだけあるのか。今も昔も少数派だと思います。だけど、テレビや雑誌や映画みたいなところでそこだけ綺麗に切り取られちゃうと、あたかもそれがスタンダードみたいに見えちゃって、それに押しつぶされそうになるっていう。
洋服なんかでも同じで、雑誌でモデルさんがすごい綺麗な服を着て、それがあたかも現実かのような感じに見えるけど、実際はいろんな体型の人がいるわけです。そっちのほうがリアリティがあるはずなのに、幻想と比べて苦しくなるみたいなことがありますよね。苦しくなるベクトルのものが多すぎて、みんなもっと適当でいいじゃんって言いたいんですけどね。どうしたらいいんですかね?
永井 料理家が「いや料理は適当でいいんですよ」とか「ズボラでいい」みたいなことを発信するっていうのはあるじゃないですか。でもそれって「料理家が与える赦し」みたいなものも含まれてるっていうか……。私、山口さんの本がえらいなと思ったのは、一人ひとりと対話して、そのあとにリフレクションじゃないですけど、精神科医の星野概念さんと一緒に対話をして。「適当でいいですよ」って言うのはすごく簡単なんだけど、人を巻き込んで、一緒にそれを実践するっていうのはすごい勇気だと思います。
山口 ありがとうございます。自分が自炊料理家っていう変わった肩書きを付けて何をやりたいんだろうって考えたときに、普通の料理家さんとは違うことをやってみよう、時間で勝負してみようと思ったんです。
永井 時間ですか?
山口 時間と関わりっていうか。レシピってやっぱ経験が生きてくるんです。10年作っていれば10年ぶんの料理知識があって、いろんな経験があって、そっちのほうがより良いレシピは作れると思うんです。
だから、料理家駆け出しの私は経験で勝負できないので、一人の人に向き合ってみようと。その人の奥にはその人に似た人たちがたくさんいると思うので、目の前の人が変わればなんか変わる気がすると思って。全然別のベクトルのところなら、頑張れるかもしれないと感じました。
永井 この本の対話パートに出てきた、みりんの話が面白かったです。
山口 うまい水の話ですよね。日本酒は「うまい水」で、みりんは「甘くてうまい水」ですって、概念的なことを伝えたほうが伝わるかなっていう。教科書的な説明はいくらでも Wikipedia に載ってるけど、読んでも全然わからないことってあるじゃないですか。
例えば私も、日本酒や醤油の作り方を何度か読むんだけど……感覚的に理解できないんですよね。私は感覚的に理解したいっていうのが強いので、どうやったら相手にも感覚的に伝わるかなって考えたときに、とりあえず料理がカラカラしてたら水を入れとけばいいんだ。でも、水だとただの何にもない味だからそれは避けて、日本酒とかみりんを入れられるようになったらいいなみたいな気持ちで、そうやって伝えたんですね。
永井 言葉の力もありますね。うまい水みたいな言い方ってやっぱり残るし、機械的ではなく、その人に届ける言葉になってるんですよね。レシピも大事だし、別にそれを否定したいわけじゃないんですけど、どうしても普遍的な言葉になるというか……例えば何ccとか、一掴みとか、そういう言葉で表現されるんだけど。「一掴みって言っても結構あります」とか、「これはうまい水です」「ペリッとするんですよー」みたいな山口さんの言葉って、その人にわかってもらおうとして発しているので、読んでる私たちが別にへぇってなるわけではないんですけど、そこに山口さんの感覚がしっかり乗っかっているから、こっちも、料理という抽象的なものが急に実態を帯び始める。私と同じように、何モノかよくわかってないのに、みりんを入れちゃう人っていっぱいいると思うんです。
山口 日本酒も、よくわからないけど入れとけーみたいな人が多そう。何しているかよくわからないのにやっているっていうことの、納得のいかなさみたいなところが、料理の苦手意識をすごい育てちゃうと思うんですよね。なぜこうなるかはわからないけど、とりあえずやれって言われたから覚えるみたいな。そうじゃなくて、どうやったらその人のなかで自分ごとにしてもらえるかが大事というか。
パーソナルレッスンで、人のお家に行って料理を教えることとかもあるんですけど、必ず適当な感じで覚えたいですか? それともきっちり計量して覚えたいですか? って聞くんです。きっちりやりたいですっていう人には、大さじ1の測り方から教えて、ざっくりでいいですっていう人には、こんな見た目になったらこれを足してくださいという感じに感覚で教えてて。そのあたりの伝え方の調整ができないのがレシピなんですよね。できるだけ万人に届けられる形にしなきゃいけないから、そうするといろんな言葉が削がれていっちゃう。
でも、レシピに伝えたいことを全部盛り込んでいくと、文字量が多くなりすぎて逆に読んでもらえなくなるんです笑。削ったら削ったでどうしても抽象的な表現になってしまうから、行間が読みづらくて、これでいいんだっけ? みたいな味になっちゃうし……。その難しさがありますね。
永井 なるほど。
山口 この本に収録した話でいうと、ある参加者にカレーを作るのでヨーグルトを用意してくださいって事前に連絡していたのに、R1しかないですって言われて。
永井 R1って、あのドリンクタイプもあるやつですよね笑。
山口 そう。それしかないんだったら、もうそれでやってみましょうみたいになりました笑。あとシーフードミックスも200グラム用意してくださいって言ってたんですけど、聞いたら300あるって言われて、100グラムだけあまっても仕方ないじゃないですか。だからちょっと具が多めってことでプラス100グラムでやったんです。
そしたら、作家の水原涼さんが『クロワッサン』に書評で、それを読んですごい許された気がしたみたいなことを書いていらっしゃって。これぐらい適当で全然いいんだよってことが伝わったーと思って。レシピの作り手側も悪戦苦闘してますし、読んでる側も苦しい思いをしてるのって、なんかしんどくない? とは思うんですけどね。
永井 ねえ。それにこの本で山口さんが「自分のことを自分で許してほしい」って書いてますけど、料理家さんとレッスン参加者の間の「許す/許される」関係も、それはそれでヘルシーじゃないっていうか。
山口 そうなんです。最初はいいんだけど、結局いつまでも聞きにきちゃうみたいなね。
永井 「ほうれん草って書いてあるんですけど、小松菜でもいいですか?」って、相手に一生聞き続けてしまうっていうのも、一つの依存関係になっちゃってて怖いじゃないですか。料理家さんのほうも、すごいパワーを持っちゃって怖いというか。
山口 だから、料理家って「先生」って呼ばれるんですよ。私のレッスンではいつも、先生と生徒の関係ではなくて、部員とマネージャーみたいな関係ですよって言ってるんです。
永井 いいですね。
山口 あなたたちがプレイヤーです。で、私はみなさんより早めに料理を始めていて、ちょっとわかってるだけの人なので、アドバイスはするんですけど、みなさんが自走するんですよっていうことを伝えています。
私のレッスンは3回完結で、そこまでやったら解散。あとは好きに自炊するべしみたいな感じで。ビジネス的に言えば、もっとコンスタントに続けて「1年コースです」ってやるといいかもしれないんですけど笑。私が教えたいことは、具だくさん味噌汁とごはんに合うメインを1、2品作れるようになるところまで。
永井 うんうん。
山口 それ以外の細かい料理は、外食もありますし、YouTubeにいくらでも動画があがってますから、自分でどうぞっていうスタンスです。だけど、そこまでにいく基礎的なところや感覚的な理解はあったほうがいいと思っていて、そこはやりたいんですよね。
永井 「許す/許される」問題はほんとうに難しいですよね。
山口 バラ肉じゃなくて、こま切れ肉でもいいですか? とかもあります。つまりそれって「失敗が怖い」っていう問題なんですよね。レシピにほうれん草って書いてあって、小松菜でやった場合どうなるかわからないけど、先にわかれば安心して小松菜で作れるから聞いてきてるわけですよね。だけど、ほうれん草と小松菜が似ているっていうところまでは、自分のなかでたどり着いてるわけで。
永井 確かに。
山口 見た目やサイズだったり、葉物野菜であることとか。そこまできてるんだったら、料理家に聞かずに自分でそれを実践できたら、すごい自信になると思うんです。「私ってすげえ! うまくいったー」みたいに。でも料理家に聞いてしまうと、作業確認になっちゃってもったいないというか……。
永井 なるほどね。
山口 料理に関わりながらですけど、「失敗するのが怖い」っていうのはすごく社会問題だと思いますね。こんな日々の料理のことでも失敗できないって思っちゃうのかっていう。そこで失敗しても別に死なないよって思うんですけど。生肉を食べるのが怖くて、焼きすぎちゃった失敗とかならわかりますよ。でも、ほうれん草を小松菜にかえたから病気になるとかはなかなかないと思うんで、いろいろ試してみたらいいと思うんですけどね。
永井 なるほどなぁ。私がやってる哲学対話っていうのも、やっぱりみんな間違えるのが怖いって思ってるんですね。そして、それはすごいよくわかるんですよ。私だって怖いし。変なことを言っちゃったら嫌だなぁとか、人がいっぱいいて、恥もかきますしね。
だいいち、私たちはそれに傷つけられてきてるんです。人と人が集まって話すのって、なんでこんな難しいの? っていつも思ってますけど、やはりそれはみんな「傷つき」を経験してきたからで。よくそれを、日本社会で育った人は対話に慣れてないからだみたいに言いますけど、慣れてないんじゃなくて傷ついてきてるんだと。傷があるんだってところから組み立てないと、いつまでたってもうまくいかないと思うんですよね。だから、「許す/許される」みたいなおまじない的なものは、対話の場だと、ある種必要になったりもするんです。でも、いつまでもそれをやってるわけにはいかなくて。