宗教間対話が灯す希望の光――『ミンダナオに流れる祈りのハーモニー』
記事:明石書店
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『ミンダナオに流れる祈りのハーモニー』は、フィリピンで40年続いてきたシルシラ対話運動による宗教間対話について、運動を創設・牽引したセバスチャーノ・ダンブラ神父と賛同した人びとに焦点を当て、ドキュメンタリー風に描いたものである。第二バチカン公会議での宣言の一つ「ノストラ・アエータテ」に感銘を受け、出身地のイタリアからモロ民族解放戦線と政府軍・警察との紛争真っただなかのフィリピン・ミンダナオに赴任したダンブラ神父は、憎悪渦巻くなかイスラム教徒・キリスト教徒の対話に挺身してきた。
武装組織と逃避行を繰り広げる、同僚のイタリア人神父や助手となって働いてくれたフィリピン人が殺害される、関係者に爆弾が送り付けられる、神父自身も誘拐されかかるなどのありさまは、まるで映画「ミッション」と「遠い夜明け」を合わせたようである。日本ではほとんど知られていないが、フィリピン市民社会では、宗教間対話を行うNGOとして誰もが口にする存在である。
さて、本書を執筆するにあたり、宗教を原因とする対立や暴力・紛争に関する本、および宗教間対話に関する本、双方を読んでみた。気づいたのは、後者の内容が押しなべて観念的・思想的で、門外漢にとってはいささか退屈(失礼!)であるに対し、前者は、実際の社会で発生する紛争・対立を追求しており、迫力を感じることである。
例えば、前者に類する正木晃『宗教はなぜ人を殺すのか』(さくら舎)は、イスラム国やアル・カイーダによるテロを引き合いに出し、宗教が人を殺す原理を、神の命令やそれを記した聖典に求める、創始者が暴力を否定している場合には、無理に教えを解釈することに見出す説明を行っている。藤原聖子『宗教と過激思想』(中公新書)は、暴力を是認してアメリカ黒人解放を唱えるイスラム教指導者、イスラム教徒銃撃を引き起こしたユダヤ過激派の人物など、焦点を近現代に発生した事件の中心人物に当て、世俗的・近代的方法では求める社会的公正が達成できないと考える、自宗教が公正さ実現の最善の方法を提供すると信じる、などの点に宗教的過激思想の共通性をまとめている。両書に共通するのは、現実を分析するなかで、理論が組み立てられている点である。
他方後者に関する書籍の多くは、ジョン・ヒックが提示したセントラル・ドグマ「宗教多元主義」と個々の宗教の重なり・離れ具合を論じる、あるいは個々の宗教思想のなかで他教との対話の可能性が認められる点を論じるという、観念的・思想的な二つの内容にほぼ収れんされるようである。対話の実践例が紹介されることはあっても、おまけ程度の取り扱いとなっている。さらには、対話を求めた観念・思想の限界を論じるなかでも、各宗教での神の言葉・聖典、あるいは自宗教の最善性・正当性観念をくびきとしているが、これは前者の論拠と同じポイントである。
このような言論の状況のなか、シルシラ対話運動の活動が示すものは何だろう。本書でも触れたように、社会調査団体ソーシャル・ウェザー・ステーションは、バンサモロ(独自の政府を持つイスラム・ミンダナオ・バンサモロ自治地域)成立の元となったバンサモロ基本法案に賛成か反対かの調査を2018年に行っている。これによると、フィリピン全体では賛成が31%、反対が28%、決まっていないが40%であった。フィリピンのイスラム教人口は5%程度である。極々単純に計算すると、賛成31%のうち26%はキリスト教徒であったと想定される。逆に計算すると、キリスト教徒で反対意見を持つ者が賛成意見を持つ者を上回っていることになるが、それでも2ポイントの差である。この「26%」という人びとの思考の源は何に求められるのか?
シルシラ対話運動は生まれてから40年になり、その間聖職者などを対象に実施した宗教間対話サマーコースの受講者は、のべ3000人を超えている。受講者がそれぞれの司教区や統括するモスク、マドラサ(イスラム教神学校)、学校などに戻り対話を伝えた人びとの数、そして対話に納得し賛同した人の数はどのくらいになるだろう。さらには宗教間対話はシルシラだけが行っているものでもない。日本のNGOでも宗教間対話をフィリピンのコミュニティで促進しているケースがある。そのような諸活動で啓発された人びとの声が、フィリピン各地で周囲に影響を与えていることは想像に難くない。
かつて市民運動やNGOによる平和活動は、紛争のなかでは泡のような存在でしかないと言われたが、殊フィリピンでは、宗教間対話の度合いを数字で把握することができる状態になっているのかもしれない。それを解明するには、草の根による対話実践を今後いろいろ調査していくことが必要だが、本書がその魁の役割を果たせればと思う。