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「贈与問題」を脱構築する! 『ジャック・デリダ講義録 時を与えるⅡ』

記事:白水社

『ジャック・デリダ講義録 時を与えるⅡ』(白水社刊)は、モースやレヴィ=ストロースやラカンを踏まえつつ、「贈与そのもの」についてじっくりと考えるために、ハイデガーを紐解く! 哲学における「存在と時間」の問題として追究してゆく脱構築的贈与論。9つの連続講義を収録。
『ジャック・デリダ講義録 時を与えるⅡ』(白水社刊)は、モースやレヴィ=ストロースやラカンを踏まえつつ、「贈与そのもの」についてじっくりと考えるために、ハイデガーを紐解く! 哲学における「存在と時間」の問題として追究してゆく脱構築的贈与論。9つの連続講義を収録。

 『時を与える』と題された講義は、デリダが1978年〜79年にパリ高等師範学校でおこなった講義である。その前半の5回分は加筆・修正されて、1991年に『時を与えるⅠ──贋金』(Donner le temps I — La fausse monnaie, Galilée)という単行本の一部に組み込まれて出版された。今回この講義の第7回から第15回の部分が『時を与えるⅡ』という講義録として出版されたわけだが、前半の第1回から第6回までの講義原稿が今後『時を与えるⅠ』という講義録として出版されるかどうかは不明である(いまのところスイユ社がおおやけにしているデリダ講義録シリーズの出版予定のなかにはなく、通年講義の後半部分のみ出版され翻訳されるかたちになっている。なお、第1回から第5回までが組み込まれた単行本『時を与えるⅠ──贋金』も日本では未邦訳である)。理想的には単行本『時を与えるⅠ』が先に翻訳・出版されてから、講義録『時を与えるⅡ』を出すべきところだが、版権の関係上、『時を与えるⅠ』を待ってからでは、『時を与えるⅡ』の出版があまりにも遅くなってしまう。いくらデリダが哲学的には「差延」の思想家だとはいえ(哲学的・存在論的には──デリダ流に言えば、幽在論的には──速さも遅さ、瞬間も残業、現在も〈来たるべき過去〉である)、せっかく出来たものを発送しないのは単なる怠慢であり、デリダの「贈り物=送り物」の思想に反するだろう。後に来たものが先に来るという錯時性(時代錯誤的な未来)も、デリダのエクリチュールらしくて、よいのかもしれない。

『ジャック・デリダ講義録 時を与えるⅡ』(白水社)
『ジャック・デリダ講義録 時を与えるⅡ』(白水社)

 『時を与える』講義(1978〜79年)全体についての詳細な内容紹介は、講義の前半部分が刊行されるさいに譲るとしよう。ただ一言だけ述べておけば、本講義は長年にわたるデリダのハイデガー読解の核心部を提示したものだと言ってよい。デリダ哲学にとってハイデガーの重要性はいまさら言うまでもない。デリダは初期の頃からいつもハイデガーに言及してきたし、彼の現象学批判や言語思想もハイデガーからの影響とその脱構築なしには考えられない。

 『ハイデガー』講義(1964〜65年)から一連の「ゲシュレヒト」論(1980年代)に至るまで、ハイデガーはつねにデリダの参照対象であり、格闘相手だったが、その哲学理論上の最も重要な核心は、ハイデガーの代表作のタイトルが示すとおり「存在と時間」の問題だった。デリダによる「現前の形而上学」批判の震源は、まさにハイデガーの『存在と時間』における〈存在=現前性すなわち現在性〉という、西洋哲学を陰に陽に支えてきた規定=限定(決意)だった。もちろん、この存在論上の決定=決断は、ハイデガーにとって、哲学者の一個人によるのでも人間の社会集団によるのでもなく、ありとあらゆる存在者の存在構造上の、さらには事実上の、もっと言えば宿命上の決定・規定・決断である。そして存在と時間とが現在(現前性:Anwesenheit)というかたちで「等根源的に」照応し、融合しあっているメカニズムをハイデガーは「贈与」と捉えているのである。

『ジャック・デリダ講義録 ハイデガー──存在の問いと歴史』(白水社)
『ジャック・デリダ講義録 ハイデガー──存在の問いと歴史』(白水社)

 存在と時間をつなぐ媒介、引っ張り合う線(Zug)、絆(Füge)、それが贈与なのである。いわば贈与は、存在と時間よりもさらに根源的である。そのことがSein ist, Zeit istではなくEs gibt Sein, Es gibt Zeitという表現に表われている。

 もちろん、この場合の「贈与」とは、一般にイメージされる社会的な交換行為(誕生日プレゼントやお歳暮や記念品、レヴィ=ストロースが描いたような女性交易、等々)ではない。存在論的贈与すなわち存在そのものの贈与である。存在者を贈り合うことではなく、存在そのものの贈与である。

 ここに見られる神学臭さは明らかだ。人間を始めとして、あらゆる存在者(この世界・宇宙)は、なんらかの創造主からの贈り物(賜物)であるという発想。ハイデガー哲学には、ユダヤ=キリスト教的な世界創造説の世俗版(存在論版)という性格がある。デリダは「贈与」という問題が構造的に抱える、ある種の神学性、宗教性を抉り出し、その最も根本的な哲学ヴァージョンとしてハイデガーに脱構築をしかけるのである。

 もちろん、贈与問題における神学性は、ハイデガーのような「超越論的」「存在論的」思考にのみ見られる傾向ではない。デリダが、「モース/レヴィ=ストロース/ラカン的伝統」と呼ぶ、宗教性を弱めたあるいは捨象したと主張する社会学的・人類学的な贈与論にも、扱う次元や対象は違えど、共通の傾向が見られるのであり、さらに社会学的な贈与論のほうが、みずからが抱える神学性を否認しているがゆえに、いっそう根深い神学性を呼び招く恐れがある(その点では、おそらくデリダはハイデガーのほうがまだましと考えている。少なくとも、ハイデガーはみずからの存在の贈与論のもつ神学性を自覚している。その意味ではハイデガーはある種の「確信犯」である)。

 存在や時間といった抽象的な問題が具体的な贈与となんの関係があるのか、と思われるかもしれないが、別にユダヤ=キリスト教でなくても、「私たちの命は天からの授かり物」(コウノトリが運んでくるかどうかは知らないが)、「私たちの存在は宇宙のなかの偶然の産物=たまさかの贈り物」という発想は、どの文化圏にも見られる一般的なものである(むしろ、ありきたりと言ってもよい)。私たちは誰一人として、自分で自分を生み出したわけでも、存在を開始したわけでもないからだ。

Storks in the historic city of Schrobenhausen[original photo: manfredxy – stock.adobe.com]
Storks in the historic city of Schrobenhausen[original photo: manfredxy – stock.adobe.com]

 本当の起源(始原の出来事、最初の一撃)はよくわからないけれども、とにかく私たちは存在してしまった、存在し始めてしまったのである(ハイデガーもライプニッツの言葉「なぜ無ではなく、なにかが在るのか」を彷彿とさせる言葉をよく使う)。存在のこの根源的な受動性、このどうしようもない事後性があるから、反出生主義のルサンチマンも生まれてくる(また「存在の耐えられない軽さ」も)。存在の出来事は一種の存在論的トラウマであり、そのアポリアが贈与として議論されるのである。

 ハイデガーは社会的な贈与行為よりも根源的な存在論的贈与の次元を主張する。デリダはハイデガーの主張を半分肯定しながらも、やはり存在論的な贈与がなおも「贈与」という社会・文化的な言葉・概念を使って思考されていることをハイデガーの固有表現そのものに即して脱構築してゆく。それが、『存在と時間』から『時間と存在』へ至るハイデガーの旅程を辿るデリダの論述の旅である。

 もちろん、それは社会学者や言語学者がおこなうような、哲学者が語る脱社会的・超社会的な次元の事柄も、結局は社会や文化に起源をもつ言葉や概念を使って語っており、結局はメタファーではないかというような浅薄な批判ではない(もっと言えば、「メタファー問題」はそんな浅薄な話ではない)。人間はなんらかの手持ちの道具や材料を使わなければ思考できない。社会的・文化的に拘束された道具を使って考えるのは当たり前である。しかし、社会的・文化的な道具は、限定された社会や文化を超えた思考や想像力を発動させるのだ。社会や文化から発したからといって、そこから生み出されたものがいつまでも社会や文化に拘束されたままでいる保証はどこにもない。むしろ、発生源からはぐれ、逸脱し、発生時にはなかった可能性を繰り広げることもふつうにある(これをデリダは「散種」と呼ぶ)。

dandelion seeds fly from a flower on a light background. botany and bloom growth propagation.[original photo: photosaint – stock.adobe.com]
dandelion seeds fly from a flower on a light background. botany and bloom growth propagation.[original photo: photosaint – stock.adobe.com]

 問題なのは、制限あったものが制限を超えて跳躍し、制限を超えただけいっそう根源的・超越的なものと設定されると、いつのまにかそうした無条件なものが現実の条件の「起源」や「本来的なもの」とみなされるようになることである。ニーチェの言う「背後世界の錯覚」である。この「転倒」こそ、宗教や神学や形而上学、存在論(さらには政治的全体主義)の歴史だと言ってもよい。この錯覚メカニズムを論じることは「あとがき」の範囲を超えるのでこれ以上述べないが、重要なのは、この錯覚の循環メカニズム(デリダにおいては、これが「差延(différance)」や「代補(supplément)」と呼ばれる)を、社会起源説や存在起源説のどちらにも偏ることなく、それらが循環しあっていること、一見対立しつつも全体としては補完しあってしまうこと(ヘーゲルの弁証法はこの点をよく理解している)、これを問題にすることであり、デリダは贈与の問題を問いながら、モース/レヴィ=ストロース/ラカン的伝統とハイデガー存在論との意図せざる結託構造を批判し、脱構築しようとしているのである。

 一言で言えば、両者ともに、社会や存在を維持・安定させ、場合によっては統制するような、そうした社会の潤滑油、存在の精神安定剤のようなものとして贈与を捉えており、贈与という行為や現象が必然的にはらむ暴力性や魔術性・悪魔性を飼いならそうとして、さらなる否認暴力や隠蔽暴力を駆動させてしまうのである。

 デリダなら言うだろう──贈り物は毒リンゴでもある。ギフトは罠や毒でもある(Gift/gift)。薬は毒でもある(パルマコン)、と。天使と悪魔の二重の顔をもつ贈与の経済学を、存在と社会の二重のレベルで、家政学でも統制経済でも自由主義経済でもなく、いかに構想し、設計していくべきか。デリダの贈与論の果てにあるのは、軍事や医療とならんで、人類にとって永遠の課題とも言える、この循環(差延)のメカニズムだろう。

Hand holding apple fruit with syringe with chemical fertilizers of red colour in apple. GMO and pesticide modification. Scientist in gloves injecting apple with red fertilizer[original photo: spyrakot – stock.adobe.com]
Hand holding apple fruit with syringe with chemical fertilizers of red colour in apple. GMO and pesticide modification. Scientist in gloves injecting apple with red fertilizer[original photo: spyrakot – stock.adobe.com]

 しかし、このような脱構築作業は、整理整頓された明確な理論や論理の図式に落とし込むことが困難である。それは細かい個々の言葉の襞や微妙なニュアンスを聞き分ける作業、エクリチュールやテクストの手触りや肌触りを感じることでしか説得力をもたない。デリダの書き物が伝統的な哲学のテクストと異質な点は、この肌触りの論理性にある。メッセージ化しきれない、微妙な感触のメッセージ。脱論理的な論理。これを聞き取れる鋭敏な耳(ニーチェが言うような耳)を持てるかどうかは、読者次第だろう。

 もちろん、そもそも訳者自身が鋭敏な耳を持っているかはわからないし、またいわゆる日本語に移して代補してしまった瞬間に、訳者の能力や主体性に関係なく、聞く耳(響きの場)自体が大きく変わってしまうだろう(デリダがこだわる「イディオム」の問題)。さらに、デリダの講義の原稿自体が完成形とは言い難い。構文が乱れている箇所もあれば、長い引用文が生のまま(分析も解説もなく)投げ出され、放置されているところもある。編者が記しているように、第14回と第15回は、デリダ自身の手になる原稿がなく、講義の録音テープからの書き起こし原稿である(しかも元の録音テープが見つからない)。この書き起こし原稿もデリダ自身が「読み返していない」と告白している。また第14回はそもそもデリダが講義原稿を書いておらず、ブランショのテクストを片手に、教室で即興で喋った内容である(即興でよくあれだけのことが語れるものだと感心するが)。

Retro cassette tape a on bright background[original photo: Tierney – stock.adobe.com]
Retro cassette tape a on bright background[original photo: Tierney – stock.adobe.com]

 こうしてみると、デリダが本書を第一巻(『時を与えるⅠ──贋金』)に続いて書籍にしようとしていたとしても、まだまだ手を入れる余地はたくさん残されていただろう。しかし、ことはそれに尽きない。最後の2回分に至っては、作者本人の原稿がなく(あったがなくなった、あるいは最初からない)、録音テープという記録メディアから書き起こしたテクストしかなく、しかもその録音テープも発見されず、そんな痕跡の痕跡が書籍として公刊され、私たちに「贈与」され「配送」されているのだ……。こうした本書(「本書」とは何なのか?)の形成の一連の代補運動(差延運動)こそが、一種デリダの脱構築思想の体現となっている(もちろん、「作者」デリダ自身にとって「意図せざる結果」だろうが)。

 しかし同時に、本書はデリダの生成中の思考、途上のエクリチュールの「生々しさ」が(良い意味でも悪い意味でも)随所に表われているテクストだとも言える。整然と剪定されまとまったのではない生成途上の、パサージュの言葉の乱舞を、その荒々しい運動を味わってほしい。

【『ジャック・デリダ講義録 時を与えるⅡ』(白水社)所収「訳者あとがき」より】

 

『ジャック・デリダ講義録 時を与えるⅡ』(白水社)目次より
『ジャック・デリダ講義録 時を与えるⅡ』(白水社)目次より

 

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