なぜ、現代社会は「体臭」に敏感なのか?〜「におい」を知るための科学
記事:朝倉書店
記事:朝倉書店
●社会の中での「立ち位置」を表す体臭
なぜ今、私たちは体臭が気になるのか。一つは、体臭が「社会的な関係性」に密接に関わっているためである。伊藤(2023)は、「浮浪者の特徴としてよくその臭いが挙げられるように、臭いということは不衛生であるだけでなく、社会性を欠くことの象徴であるかのようである。」と述べている。また映画『パラサイト 半地下の家族』(2019)では、体臭にまつわる表現が随所にみられる。この映画は、半地下住宅に暮らす全員失業中の家族が、身分を偽って富豪の家に家庭教師や運転手として入り込み、騒動を巻き起こすブラック・コメディーであるが、その中でも父親ギテクの体臭がその人の社会的地位あるいは状況を暗示するシグナルとして描かれている。
●「人に迷惑をかけていないか?」という不安
また日本においては、「人さまに迷惑をかけてはいけない」という規範が受け継がれており、自分の体臭によって隣にいる人に迷惑をかけてはいけないという無言の圧力がかかっているようである。さらに、自分の体臭は嗅覚順応で知覚しづらく、皮膚ガスは極微量のため視覚で見ることはできない。自分では捉えることができない自分の体臭が、周囲の人の快・不快感に影響を及ぼすとすれば、漠然とした不安につながることもあるだろう。また、もともとにおいに対して敏感といわれる女性の社会進出も要因の一つかもしれないが、この点は今後の社会学的検証を待ちたい。
●空気を汚染する様々な要因
一方、環境学的な視点からは、体臭が「目立つ」ようになってきたことが挙げられる。時代とともに私たちが吸っている空気が相対的にきれいになってきたのである。日本は、1950~1970年代の高度経済成長期に深刻な大気汚染による公害を経験したが、大気汚染防止法などにより環境基準や、工場排煙・自動車排ガスに対する排出規制が設けられ、光化学スモッグや微小粒子状物質(PM2.5)などによる大気汚染は減少傾向にある。今、晴れた日は都心部や工業地帯でも澄み切った青い空を仰ぎ見ることができる。一方、化学物質による室内空気汚染は、古くは開放型燃焼器具の使用に伴う一酸化炭素中毒、1990年代後半からは建築材料などから放散されるホルムアルデヒドや揮発性有機化合物(volatile organic compounds, VOCs)によるシックハウス症候群、近年では住宅の浸水被害の増加に伴う高湿度環境下における微生物由来VOCsによる健康影響などが大きな関心を集めてきた(松木 2023)。さらには、紙巻きたばこなどの喫煙は、喫煙者自身の健康問題だけでなく、非喫煙者に対する望まない受動喫煙の原因になっていた。
●清浄になった空気に皮膚ガスが放出されると……?
しかし、これらの問題が次第に改善され、ヒトの周囲の空気が清浄になるにつれて、ヒトの体臭が相対的にクローズアップされてきた。すなわち、環境中のヒトから放散する皮膚ガスが、においを伴って空気中の不純物となり、感知されやすくなったのである。友人や知人を訪ねた時に、その家特有のにおいを感じることがある。家庭における室内臭気には、調理、内装材や家具、布製品、生ゴミ、ペット、たばこ、芳香剤などが影響するが、ヒトから生じる生体ガスもこれらに混じり、特有のにおいを形成しているのである。中村ら(2014)は、住居形態、家族構成および生活習慣の異なる5家庭で室内空気を採取し、窒素系、硫黄系、脂肪酸系およびアルデヒド系の悪臭物質18種類を測定し、アルデヒド系および酢酸が室内臭気の主な原因であること、これらはヒトの皮脂や汗に由来することを明らかにしている。