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『寅さんとイエス』の著者が聖書に表現なきイエスの「笑い」の謎に迫る ――米田彰男『イエスは四度笑った』

記事:筑摩書房

イエス・キリストのモザイク、アヤソフィア、イスタンブール・トルコ
イエス・キリストのモザイク、アヤソフィア、イスタンブール・トルコ

イエスが四度笑った福音書

 不思議なことに、聖書の中にはイエスの笑いが登場しない。イエスの生涯を描いた四つの正典福音書にイエスの笑いは記載されていない。ところが、イエスが四度笑った福音書が存在する。その名は『ユダの福音書』! コプト語で書かれた謎の文書が、一九七〇年代にエジプトで発見された。なんと千七百年近くナイル川流域に眠っていたのだ。水生植物を原料とするパピルスに記され、三十三枚、六十六頁のボロボロに劣化した姿で見つかった。
 聖書には何人かのユダが登場するが、このユダがイスカリオテのユダと判明するや、金儲けや手柄を企む古美術商や学者らによって、ぞんざいに扱われ、スイスやアメリカの銀行の貸金庫に眠る時期もあった。一人のスイス人女性、古文書修復家フロランス・ダルブルの工房に、劣化に劣化を重ねた『ユダの福音書』が持ち込まれたのは、発見後数十年を経た二〇〇四年十二月五日のことであった。

 ところで、二千年にわたり裏切り者のレッテルを貼られ続けたイスカリオテのユダであるが、驚くことに原語のギリシャ語聖書には、ユダがイエスを裏切ったとはどこにも書かれていない。日本語も英語もドイツ語もほぼことごとく「裏切った」と訳しているが、みな意訳であり、原語のギリシャ語は「引き渡した」である。さすがフランス語のTOB訳は正しく「引き渡した」と訳している。引き渡すことと裏切ることは同じではない。なんと『ユダの福音書』においては、官憲への引き渡しは、イエスを裏切るどころか、イエスの望みそのものであった。

前著『寅さんとイエス』で詳述したかった三箇所

 さて、『イエスは四度笑った』は、拙著『寅さんとイエス』の姉妹編である。『寅さんとイエス[改訂新版]』では二箇所で、次作『イエスは四度笑った』で詳述すると予告している。本当は三箇所で予告したかったのだが、三回は諄いと思い二回に留めた。そこで、この場を借りて、詳述したかった三箇所を明記しておこう。
 一つ目は、『寅さんとイエス[改訂新版]』五二~五三頁で、吉本隆明著『マチウ書試論』において、「情欲をもって女を見る者は誰でも、すでに心の中で女を姦淫したことになる」(マタイ五章二八節)というイエスの言葉を、「原始キリスト教が、ユダヤ教に対する激しい近親憎悪のもとに創り上げた、教義的ロギアを原型として、マタイの作者がイエスの口に乗せた」とする吉本隆明の解釈に対し、「Q資料」や「史的イエス」の観点から批判したものである。

 二つ目は、これこそ予告を躊躇し諦めた箇所であるが、改訂新版の一三六~一三七頁で、以下の内容である。マルコ福音書一章四一節において、レプラ(ギリシャ語で、らい菌による感染症)の人がイエスに近づき跪いて願う――「もしお望みならば、私を清くすることがおできになります」と。問題はそれに対する次のマルコの表現である。「イエスは憐れんで手を伸ばしてその人に触れ、……」。この箇所の憐れんでが、マルコの西方型写本では怒ってになっていて、異なった読みを示している。憐れんでと怒ってではずいぶんニュアンスが違うが、日本語のみならず各国語の聖書はほぼことごとく「憐れんで」を採用している。
 しかし果たしてマルコのオリジナル(聖書は原本など残っておらず、新約聖書だけでも何千という写本で今日まで運ばれている)は、憐れんでと怒ってのどちらの可能性が高いか? マルコにおける「イエスの風貌」や「写本」の観点から、その点について本書で詳述している。

 三つ目は、改訂新版三〇〇~三〇一頁で、椎名麟三が「道化師の孤独」の中で、「……私はただ、何とかしてイエス・キリストを笑わせてあげたいと思っているということにとどめよう。それにしても、聖書のどこかでイエスが笑っていて下さったら、とただそれだけが残念である。」と述べていることを受け、本書は現代聖書学の成果を踏まえながら、笑いなきイエスを笑わせることに挑戦した一つの試みである。我々の歴史の中を生き抜いたイエスを、可能な限り当時の具体的な現場に戻しつつ。

米田彰男『イエスは四度笑った』(筑摩選書)
米田彰男『イエスは四度笑った』(筑摩選書)

◇朝日新聞「著者に会いたい」米田彰男さんインタビューはこちら

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