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スウェーデンを鏡に日本の学校教育を考える

記事:明石書店

『スウェーデンの優しい学校』(戸野塚厚子著、明石書店)
『スウェーデンの優しい学校』(戸野塚厚子著、明石書店)

スウェーデンの義務教育学校を描く

 本書は、スウェーデンの教育を長らく研究してきた教育学者が、同国の学校教育のあり方を広く日本人に紹介することを意図して執筆した書籍である。軽妙な語り口の文体と大胆な省略を併用して全体的に読み味を軽くしながら、参考文献や典拠を丁寧に示すことで事実の細部までゆるがせにしない生真面目さも見せるこの本は、随筆とも評論ともつかない、独特な個性を放っている。スウェーデンの「学校文化、カリキュラムの比較研究の成果」を「多くの人と共有し、対話する」ために書かれた本書は、しかしながら「スウェーデンの義務教育を体系的、網羅的に説明する」のは、敢えて避けているという。代わりに、著者がスウェーデンの教育の特徴だと考える諸要素、すなわち自由・柔軟・ゆとり・対話・共生・権利と参加・民主主義と平等――といった視点から学校とそこで実践される教育の実際をスケッチし、それらを組み合わせて「優しい学校」の全体像を提示する。いわば絵画の連作のようなものだが、その手法は歴史画や宗教画のように物語の各場面を並べるのではなく、「富嶽三十六景」のように同一物の多面性を強調するのでもなく、むしろモネによる「つみわら」や「睡蓮」の連作に近い。

 同一の対象を、敢えて構図を変えずに幾度も繰り返し描くようなスタイルをとる本書は、中学受験を控える子どもの父母などには気になるだろう「学力」や、卒業後の進路などについては、話題の中心から外している。著者が描きたいのは、スウェーデンの学校教育の「優しさ」ただひとつであるからだ。全9章からなる本文、そして17もあるコラムでは、雨の日に傘を差さないといった些末な事柄を取り上げながらも、成績向上につながる教育実践や方法論といった考察は皆無である(むしろ、教育に競争原理を持ち込もうとする近年の風潮を取り上げ、警鐘を鳴らしている)。となれば、モネの「睡蓮」の連作を退屈だと評するのと同じような感想を持つ読者もいるかもしれないが、著者としてはそこは割り切って、教育学者として最も読者に伝えたいポイントを絞って訴求することにしたのだろう。自然科学における啓蒙的著作が当該分野への学術的興味を持ち合わせた読者を想定するのとは異なり、誰もが人生経験を頼りに素人評論家として一家言持てる「教育」のようなテーマの本となると、読者の知的背景も目的も様々になる。いきおい(確信犯的)誤読というか、ここは日本でスウェーデンじゃない、といった頑な反応を見せる読者も出てくるかもしれないが、本書は聞き分けのない子どもに諭し聞かせるようにして、著者が望ましく見習いたいと考えるスウェーデンの学校の特長を、繰り返し丁寧に叙述していく。

スウェーデンと日本の比較考察

 本書を貫くのは、著者が「往還する旅」と比喩的に表現する、スウェーデンと日本とを比較対照するまなざしである。本書では多くの切り口から現地の初等教育が描かれるが、ひとつの事実やエピソードが登場するたびに、スウェーデンにおける実情の解説と併せて、同じことが日本ではどうなっているのかについても、相当な熱量をもって語られる。読者が慣れ親しんできた日本の学校に関する自身の経験的理解と、その真逆をいくスウェーデンの流儀を照らし合わせることで、同地の初等教育がいかに「優しい」のか(逆に言えば日本がいかに「優しくない」のか)を、具体的かつ直感的に理解させる仕掛けになっているのだ。自身が訪れたり住んだりした異国の状況やそこでの体験を面白おかしくつづるエッセイは、昔から安定した人気を集めるジャンルだが、本書がそれらの海外旅行・居住体験記と一線を画するのは、本職の教育学者が、教育という主題から焦点を外さずに、描写と考察を行っている点である。一般には混同されやすいであろう日本における「学習指導要領」とスウェーデンの「ラーロプラン」の違いの説明や、スウェーデンの「優しさ」を歴史的な教育思想の背景に位置付けて整理する所作などを通じて、本書は単なるスウェーデン礼賛に終わらず、対照的な惨状にある日本の学校教育を「優しく」変えるための論理的・方法論的希望を示唆する。

 著者は1990年代から繰り返しスウェーデンを訪れ、学校の教育現場に身を置く参与的な調査を続けてきた。そんな著者が現地で見聞きした「優しい」出来事のうち、書評者にとって最も印象深かったのが、日本の小~中学校にあたる基礎学校の非常ベルが(おそらくは特定生徒のいたずらによって)何度も繰り返し鳴らされるエピソードである。授業中に突如ベルが鳴り響き、生徒も教職員も校庭に避難することを強いられる。そんな日が幾日も続くのだが、教員たちは怒りもせずに、ベルが鳴れば避難、を繰り返す(いたずらではあろうが、万が一もあるので、避難しないわけにもいかない)。これが日本の学校なら、教員たちは躍起になって「犯人」を探し当て、いたずらを止めさせようとするだろう。しかし、不思議に思う著者を尻目にスウェーデンの教員たちは、そんな素振りは全く見せなかったという。詳細については書籍に譲るが、著者によれば「犯人」探しをしない態度は、支配/被支配の関係性を学校に持ち込まず、規律権力の網の目から子どもたちを遠ざけようとする、教員たちの意思の表れだという。

「FIKA」の意味するところ

 本書が着目するスウェーデンの学校の「優しさ」は、決して子どもたちだけに向けられているのではない。日本では、学校教員の長時間労働や精神的重圧が問題となっているが、本書に登場するスウェーデンの教員たちは、そうした悲愴感ともブラックな職場環境とも無縁のようだ。本書の副題にある「FIKA」とは、スウェーデン人の生活には欠かせないコーヒーブレイクのことを指す。著者が調査に訪れた基礎学校ではどこも、午前10時および午後3時になると教職員たちがFIKAを楽しんでいた。つまりはそれだけ時間と業務量に余裕があるわけだ。職員室は、日本のように業務用デスクが並ぶのでなく、「カフェ」や「休憩室」と呼ぶのがふさわしい、くつろげる空間になっているという。そこでの会話は自ずと、職制上の役割に縛られずに楽しむものとなり、互いに尊重し合う対等な関係において対話が成立する。著者はこうしたFIKAの情景に、スウェーデンの学校教育の全体を重ね合わせる。「優しい学校」とは、まるでFIKAのように、人をほっこりと幸せにする教育が実践される場なのである。

午後のFIKAの時間
午後のFIKAの時間

 本書を読み進めると、日本とはあまりに異なるスウェーデンが、まるで理想郷のように見えてくる。日本の教員は文部科学省の検定(という名の検閲)に制約された「教科書」を教えるが、スウェーデンの教員は多種多様な「学習材」を自由に選んで授業を設計する(日本でも大学教員はそうしている)。日本の学校は規律によって生徒を縛り、違反者には罰を与える。スウェーデンの学校は規律権力を嫌い、「自由度が高くて柔軟」である。日本の学校は生徒に一律の制服を着せ、服装はおろか髪型までをも細かく指定するが、スウェーデンの学校は多様性を尊ぶ。日本の学校はクラス毎の一斉授業を主とするが、スウェーデンの学校では個別授業と一斉授業を適宜組み合わせる。――児童生徒が未成熟な小中学校の教育をそんなやり方で進めたら、教室内の秩序を保てず収拾が付かなくなるのではないか。といった疑念が湧き上がってくるかもしれない。でも現実にスウェーデンの学校は、新自由主義の台頭や移民の増加などによる困難を抱えながらも、上述のスタイルで大過なく運営されているのだという。

遥かな理想か、目指す目標か

 今日の日本は、閉塞感と不寛容に病んでいる。社会がそんな袋小路に行き詰まった一因として、帝国陸海軍の伝統を連綿と受け継いできた日本の「優しくない」学校教育があるはずだ。少なくとも書評者には、そう感じられて仕方がない。非-人間を人間へと矯正する施設として刑務所と同じ機能を担う日本の学校は、フーコーのいう「監視と処罰」に依拠して成り立ってきた。管理教育が全盛であった1980年代の千葉県で中学時代を過ごした書評者にとって、規律権力に頼らない義務教育学校を想像するのは、率直に言って困難である。しかし、本当にそのような学校がスウェーデンで普通に成り立っているのなら、日本人が同じことをするのも不可能ではあるまい。日本の学校教育に疑問を持ち、何かを変えたいと思っている人に、参考にも希望にもなるであろう本書を、ぜひ推薦したい。

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