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人びとの豊かなつながりのうえに――セルヒー・プロヒー『ウクライナ全史』

記事:明石書店

『ウクライナ全史』(セルヒー・プロヒー著、鶴見太郎監訳、桃井緑美子訳、明石書店)
『ウクライナ全史』(セルヒー・プロヒー著、鶴見太郎監訳、桃井緑美子訳、明石書店)

 本書はSerhii Plokhy, The Gates of Europe: A History of Ukraine, New York: Basic Books, 2021の全訳である。初版は2015年に出版され、これに第28章が追加されたのが改訂版の本書である。著者のセルヒー・プロヒー(アクセントはそれぞれ「ヒ」の部分にある)氏は、近代初期のウクライナにおけるコサックや宗教を専門とする傍ら、ウクライナ史に関して幅広く執筆活動を行ってきた。いくつかの著書は各国語に翻訳されており、ウクライナ史研究の第一人者といってよいだろう。

  専門に関する著作では『近代初期ウクライナのコサックと宗教』『ツァーリとコサック――イコノグラフィーの研究』『コサックの神話――諸帝国の時代の歴史と国民であること』などがあり、本書の初版を出版した頃から現代にも射程を広げ、ノンフィクションに関する賞を受賞した『チェルノブィリ――核のカタストロフィの歴史』、さらには時事問題を扱った著作も多数上梓している。2023年に出版したThe Russo-Ukrainian War(ロシア・ウクライナ戦争)は、現在他社から日本語訳が準備中とのことである(なお、他の著書で日本語訳はない)。

 プロヒー氏は1957年にロシアのニジニー・ノヴゴロドでウクライナ人の両親のもとに生まれ、幼少期にウクライナ東部のザポリッジャに移住した。1980年にウクライナのドニプロペトロウシク大学(現在のドニプロ国立大学)を卒業し、その後モスクワにある民族友好大学、キーウのタラス・シェフチェンコ・キーウ国立大学で学んだあと、ドニプロペトロウシク大学で1983年から1991年まで教壇に立った。

 ソ連崩壊期にカナダに移り住んだのちに、1996年からカナダのアルバータ大学付属カナダ・ウクライナ研究所に務めた。2007年よりハーバード大学でウクライナ史を講じる教授となり、2013年より、ウクライナ研究の世界的拠点の一つであるハーバード・ウクライナ研究所の所長を務めている。

 2023年6月に北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターの招きで日本に滞在され東京で講演された際に監訳者もお目にかかり、その気さくな人柄に触れることができた。

ユダヤ史の観点から

 著者のこうしたトランスナショナルな経歴は、本書のバランスの取れた記述とも無縁ではないだろう。旧ロシア帝国のユダヤ人や彼らが建国に深く携わったイスラエルの近現代史を専門とする監訳者にとって、ホロコースト以前まで、ポーランドと並んで世界のユダヤ人口の中心であったウクライナは、研究のなかでよく出くわす「場」である。

 シオニストをはじめ、近代志向のユダヤ人が多く輩出したオデーサや、超正統派やハレディームと呼ばれる黒服のユダヤ人の聖地があるウマニ(ウマン)をはじめ、ユダヤ史上でも重要な地域がウクライナには散在している。また、17世紀のフメリニツィキーの乱では多くのユダヤ人が犠牲となり、19世紀終わりから1920年代初めにかけて、ウクライナはユダヤ人に対する迫害事件であるポグロムの中心地となった。ホロコーストでもユダヤ人は多く命を落としており、ユダヤ史の暗い部分ともウクライナは密接に関係している。

 ユダヤ系であるゼレンシキーが大統領に選ばれたのは、すでに数万人しかユダヤ人口が残っていないなかでは偶然というべきだが、ユダヤ人がこの地に何世紀にもわたって根を張ってきたこともまた無視できない背景だろう。

 そうしたユダヤ史の観点から見ても、ウクライナ民族主義の立場からは耳が痛くなる反ユダヤ主義的な諸側面に本書は触れていることがわかる(もっとも、ホロコーストにおいて、多少なりともあったウクライナ人の関与が明示されていない点には不満は残る)。また、ユダヤ人との関連で監訳者に馴染みのあるロシア史の観点から見ても、とりわけ18世紀から20世紀終わりまでにかけてウクライナを支配し多くの禍根を残してきたロシアの支配者に関して、力まずにありのままに描いている印象を受けた。

 もちろん、例えば、スターリン期の大飢饉(ホロドモール)について、ウクライナ人に対するジェノサイドであるという見解をほぼ定説と紹介するなど、ロシアにおける標準的な理解からすると異論が出る部分はそれなりにあるだろう。それでも、極端な解釈を採用することはなく、ロシア史研究との連携にも開かれた形となっている。

グローバルな流れのなかで

 監訳者が見る限りでは、現在のウクライナ人の観点からもバランスの取れた記述であり、ウクライナ人研究者の悪評も聞かない。ここで「バランスが取れた」というのは、両論併記をしているとか、どのアクターも対等な存在であるかのように描いているといった見かけ上の問題ではなく、単純なストーリーを排し、複雑な経緯をできるだけ複雑なまま、順を追って説明しているという意味である。

 さらにいえば、「〇〇民族の歴史」のようにあたかも他から孤立して自己完結した歴史があるかのように描くのではなく、様々なつながりが交錯する場としてウクライナの歴史を描いているのも、本書がウクライナの実態に即してバランスが取れていると評価できるゆえんである。

 著者は別のところで、「領域としてのウクライナの歴史は、他の多くの場所や国、民族のそれと違って、今日ではおそらくグローバルな、あるいはトランスナショナルな歴史として特徴づけられるような歴史記述に起源を持つ」と書いている。本書でも言及があるように、紀元前五世紀中葉にヘロドトスが『歴史』のなかで現在の南ウクライナとその多民族的な人口について記したのが、歴史記述にウクライナが登場する最初の例である。それ以来、ウクライナの歴史は、グローバルな歴史の流れに位置づけながら記述されてきた。

 例えば、ルーシ人の年代記編者がキーウ市の歴史を書き留めた際、すでにギリシャ人による歴史記述が積み上げられていた。ギリシャ人は、スキタイ人が暮らしていたこの土地にキリスト教をもち込んだ。ルーシ人は、地元の言い伝えを、キリスト教や帝国の歴史図式に落とし込んで編纂していった。

 このように、ウクライナの歴史は、それ自体が多民族的であるだけでなく――それだけなら他の国々の歴史も多かれ少なかれ同様である――その歴史が様々な立場の者から、それぞれの観点を混ぜて書かれてきた点で特徴的なのである。それゆえ、ウクライナ史は多様なものを取り込み、また外部とつながっていく歴史認識が生まれやすい場であるといえるだろう。

「ソ連史」から多声的な歴史へ

 もっとも、20世紀にナショナリズムの時代に入ると、ミハイロ・フルシェウシキーが民族史的な「ウクライナ史」を描き、その後のウクライナ史学の嚆矢となるなど、この傾向には変化もあった。それでも、フルシェウシキーはウクライナ史を孤立させるつもりはなく、将来のロシアなどとの連邦的な枠組みに入る前提でウクライナ史を位置づけていた。

 その後ソ連を構成することになったウクライナでも、共産主義者は世界の社会主義国家のコミュニティの一角にウクライナを位置づけ、世界との様々なつながりを提示しようとしていた。だが、その試みはスターリンによって物理的に遮断され、その後の「ソ連史」という枠組みのなかで、ウクライナ史のトランスナショナルな側面はロシア・ウクライナ関係に矮小化されてしまったという。

 ロシアのプーチン大統領は、2021年7月に「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」という「論文」を発表した。2022年2月の侵攻に際して理論的根拠の一つとなったとされる同論文では、ウクライナ史とロシア史の関係(特に後者の前者に対する貢献)が過剰に強調される一方で、それ以外のつながりは捨象されるか、本来望ましくなかったものとして否定されている。

 確かにウクライナ人とロシア人は、ベラルーシ人とともに、キーウ・ルーシを――詳細やその後の展開について様々な見解があるとはいえ、大雑把にいえば――共通の祖先としている。だが、その後の歴史的歩みは様々に異なっていた。

 一例として、ロシア史では暗黒時代として描かれ、今日までロシア人の外国に対する過剰な警戒心の原点になっているともいわれる「タタールの軛」について、ウクライナの場合はかなり異なっていた。ウクライナではモンゴル人は威圧的でも攻撃的でもなく、支配期間もロシアでの支配より短かったのである。「この違いが、二つの地域とそこに居住する人々の運命に深い影響をあたえることになった」と著者は記している。

 その後数世紀にもわたって、ウクライナの多くの地域は、リトアニア公国、ついでそれと合邦したポーランド・リトアニア共和国の支配下ないし影響下に置かれた。それは、のちにこの地域を併合したロシア帝国の支配層にとっては、なかったことにしたい歴史ではあった。そのため、彼らはポーランド人を敵視し、ポーランド語の影響が強いウクライナ語での出版や教育を禁止した(なお、今日でもウクライナ語はロシア語とポーランド語の中間的な言語であり、特に語彙の面ではポーランド語のほうが近いとされる)。

 ウクライナでは、コサックが国を統治したり大きな影響を及ぼしたりした点でも、コサックを民兵のようなものとして雇い、せいぜい特定の地域で自治を認めていただけのロシアの場合と異なっていた。

 著者は本書で、「今日ウクライナの過去について書こうとするなら、現代のウクライナ人の祖先を定義するのに二つ、もしくはそれ以上の用語を使わなければならない」とする。さらに、類書と異なり、ウクライナを支配地域ごとに分けずに一緒に論じることを心がけているとも書いている。ウクライナの多層的で多声的な歴史が、こうした基本方針からプロの歴史家によって紡ぎ出され、描かれているのが本書である。


 最後に、人びとの豊かなつながりのうえに立ってきたウクライナに一刻も早く平和が訪れることを、読者諸氏とともに祈りたい。

(本書の訳者あとがきより抜粋、一部を修正)

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