時代によってその領域と住民構成が大きく変遷したポーランドの歴史
記事:明石書店
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ポーランドで最初の国家統合が行われたのは10世紀半ば過ぎのことであった。日本では平安時代にあたる頃である。伝統的なヨーロッパ史の時代区分では、ギリシャ・ローマ文明を中心とした5世紀後半までが古代であり、それ以降が中世とされる。その区分法にしたがえば、統一されたポーランド国家は、ようやく中世の半ばに成立したことになる。それ以降、現在までの期間は1050年あまりにすぎない。ただし、その間のポーランド史を見ると、中世は15世紀末あるいは16世紀初めまで、近世は第三次分割で国家が滅亡した1795年まで続いた。あわせて800年あまりである。一方、近・現代はその後の二百数十年間である。この年月の長さを考えると、今回近世で二つの章が新たに加わったとはいえ、初版に続いて本書全体で中・近世に関する記述が占める割合は決して多いとは言えない。しかし、これをもって、この時期のポーランドの歴史が面白さを欠くということにはならない。他のヨーロッパ諸国の歴史と比較した場合のポーランドの歴史の特徴は、まさに中・近世のポーランドにおいて築かれた土台のうえに認められるからである。
その特徴の一つは、時代の中での領域の変遷のスケールが大きいことである。第二次世界大戦後のポーランド国家の領土に含まれるマゾフシェ(中心都市はワルシャワ)、マウォポルスカ(中心都市はクラクフ)、ヴィエルコポルスカ(中心都市はポズナン)、ポモージェ(中心都市はグダンスク)、シロンスク(中心都市はヴロツワフおよびカトヴィツェ)、ヴァルミア・マズーリ(中心都市はオルシュティン)などの諸地域のうち、国家滅亡期(1795~1918年、1939~45年)を除いて、国家統合以来ポーランド国家の領域に含まれていたのはマウォポルスカとヴィエルコポルスカのみである。加えて、1569~1772年の時期は、ジェチポスポリタ(共和国)と呼ばれたリトアニア大公国との連合国家の版図に、現在のウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ラトヴィアの多くの部分、エストニアの一部が含まれていた。
こうした領土的な変遷と相まって、ポーランド国家における住民構成が時代ごとに大きく異なっていたことも、看過できないポーランドの歴史の特徴の一つである。現在のポーランド人の大多数はポーランド語話者であり、ローマ・カトリック教徒でもあるが、この意味でのポーランド人がポーランド国家に占める割合において圧倒的な多数を占めるようになるのは、1050年あまりにわたるポーランド国家の歴史の中ではつい最近の第二次世界大戦以降のことにすぎない。とりわけ16世紀半ば以降のポーランドは、民族で言えばウクライナ人やドイツ人、ベラルーシ人、ユダヤ人など、宗教で言えば正教徒やプロテスタント諸派信徒、ユダヤ教徒、ムスリムなどを含む多言語・多宗教・多文化国家であった。
日本におけるポーランド史研究の草分けとして、本書では梅田良忠と阪東宏が取り上げられている。両氏のパイオニアとしての意義が大きいことはもちろんであるが、もとより、日本におけるポーランド史研究のパイオニアが両氏にとどまるわけではない。本書第2版の執筆者以外でも、(故)中山昭吉、伊東孝之、松川克彦、小森田秋夫、井内敏夫、(故)早坂眞理、藤井和夫、川名隆史といった方々が大きな業績を残されている。これらの方々の著作に関しても「ポーランドの歴史を知るための文献ガイド」にあたってぜひ参照されたい。