深い学識と真摯な気持ちが生んだ検閲 ロビン・ヴォウズ『禁書目録の歴史』(標珠実訳、白水社刊)
記事:白水社
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【原著紹介動画:Censored, Banned and Bowdlerized: The Index of Prohibited Books】
1600年2月8日、ひとりのドミニコ会修道士が公式に身分を剝奪された。彼は宗教的権威を示すすべての印を剝ぎ取られ、修道服やトンスラだけでなく、かつて聖油を塗られた指や手のひらの皮膚まで削り取られた。さらに、異端審問の禁令により、今後この元修道士の数多くの著作(『魔術論』、『キルケーの呪文』、『傲れる野獣の追放』といった挑発的な題名が並ぶ)は禁書となることが告げられた。その9日後の「灰の水曜日」、ローマ中心部のいつもは賑やかな市のたつカンポ・デ・フィオーリ広場で、男は口を封じられ、木の杭に縛られて、生きたまま焼かれた。今日この場所にはノーラのジョルダーノ・ブルーノの死を記念するブロンズ像が立ち、広場に集まる花売りや観光客の上に暗い影を落としているが、多くの人々は四百年以上も前にここで起こった恐ろしい出来事を知らない。
しかし、ブルーノの著作はそう簡単に禁書となったわけではない。彼は黒魔術や悪魔召喚に精通した大胆な自由主義者であるとしても、同時に深い霊性をもった優れた科学者としても知られており、カトリック教会内部でもさまざまな立場の人々がその扱いをめぐって争い、審議には数年を要した。ブルーノが最初に疑われたのは、1566年、まだ10代の修練士の頃に自分の独居房から聖像をすべて撤去し、宗教上の問題で周囲と争ったことがきっかけだった。その後、この若い修道士は、禁書を密かに読んだという理由で(その中には彼が修道院の便所に隠していたエラスムスの『聖書注解』もあった)告発され、最初はジェノヴァ、次にヴェネチア、そして1579年プロテスタントのジュネーヴに逃亡を余儀なくされた。しかし、スイスのカルヴァン派の間でも受け入れられず、その後フランス、イギリス、ドイツを旅し、自分の科学理論を広めてゆく。1592年、最終的にヴェネチアに戻り、ラモン・リュイによる記憶術を教えて金儲けを目論んだが、金持ちの後援者と仲違いしたあげく地元の異端審問官に告発され、逮捕された。数か月後、ブルーノはローマの異端審問に引き渡され、さらに7年の裁判を経て、教皇クレメンス8世と異端審問官枢機卿によって最終的に有罪判決が下された。
衝撃的な処刑の後も、非効率な手続きのせいで、ブルーノの名前が禁書目録に載るまでには時間がかかった。1603年、教皇宮廷神学顧問(ブルーノと同じドミニコ会士、ジョヴァンニ・マリア・グァンツェッリ)によって、彼の全著作(opera omnia)を他のさまざまな著者の文書とともに禁ずる長い法令が出された。しかし、発令があまりに遅かったせいで、クレメンス目録の再版と1612年のスペイン目録には掲載されなかった。教皇アレクサンデル7世のローマ目録の改訂版に「ノーラのヨルダヌス・ブルーヌスのすべての書籍と論文」(Iordani Bruni nolani libri, & scripta omnia)が追加されたのは、ようやく1664年のことである。一方、禁書の知らせはスペインにも届いたが、どうにも不正確な形で伝えられた。1632年のスペイン目録では、「Iordanus Bruerus Holanus, phil.」(ヨルダヌス・ブルエルス・ホラーヌス、学者)という人物の著作が糾弾されている。この誤りは、誰のことだかわからないまま書きつがれていったことで、ついに1790年には、「Bruerus (Jordanus), Holland.Philol.1 cl.」(「ブルエルス(ヨルダヌス)、オランダ、文献学者、第一級」)という、実在しないオランダ人文献学者が第一級の非難を受けることとなる。
ブルーノが格段に厳しい扱いを受けた原因についても、完全に明らかではない。彼の不従順さ、知的なプライド、強情な性格も一因だろうし、プロテスタントと公然と広く付き合っていたことも、不利に働いただろう。しかし、ブルーノの裁判に関する重要な書類の一部は、残念なことに、後にナポレオンに押収されてパリに送られるローマの異端審問記録の中にあった。これらは、ワーテルローの戦いの後に、ボール紙用にパルプ化されるか、魚の包装などに使われて散逸してしまった。ブルーノの裁判とその過酷な結末を理解するためには、告発の概要やその他の付属資料に頼らざるを得ない。これらの資料から、死刑判決のおもな要因が彼の宗教的異端性、魔術、科学的革新性のいずれにあるのか、研究者は長いこと議論してきた。しかし、この3つの境界線は、当時の審問官にとっては今よりもはるかに曖昧だった。「魔術」(さらには「悪魔の技」)に関する著作が、今日では「科学」史において画期的な成果とされる書物や考えと並んで禁止されたが、こうした状況を理解するためには、中世末から近世初期の人々にとって、魔術や科学という言葉が何を意味したのかを知る必要がある。数学、物理学、医学、社会学など、現在「科学」と呼ばれているものはすべて、前近代の教会当局の目には、宗教と密接に結びついていた。そして、より邪悪で神秘的な力とも結びつく可能性があったのである。
ブルーノやガリレオ・ガリレイなどの有名な例から、ジェロラモ・カルダーノやジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ポルタのようなやや知名度の低い人物まで、禁書目録では多くの著者や文書が(宗教的、虚偽的内容ではなく、むしろ)「科学的」な内容を理由に検閲対象となった。教会当局は、今日「魔術」と呼ばれるような知識や行為に対しても、(決して全面的にではないが)難色を示した。同時に、この検閲の性質と範囲については、過去にしばしば見られたような誇張は避けるべきだろう。カトリック教会は全体として、露骨な「反科学主義」ではなかったし、一部のプロテスタントや近代の世俗主義者が主張したよりも、実際には多くの魔術師や魔女に対して寛容であった。それどころか、ローマは初期近代のほとんどの時期を通じて、最先端の科学思想の中心地として知られていたし、教皇や高位聖職者のなかには、知識や研究の分野で当時の最も熱心な後援者に数えられる人々もいた。さらに、カトリックの国々でも魔術師が訴えられる危険は常にあったが、実際に最も激しい「魔女狩り」の一部は、プロテスタントや世俗権力が主導したものだった(1692年頃マサチューセッツ州セイラムで行なわれた魔女狩りなど)。カトリック教会の科学や魔術に対する考え方は、その種類に関わらず、曖昧で、複雑で、首尾一貫しなかった。検閲の多くの点と同様に、あらゆる知的逸脱を根絶しようという狙いはもちろんあったが、(少なくとも)それと同じくらい、教会の権威を維持し、キリスト教徒の魂の幸福とされるものを守ろうとする傾向が強い。したがって、目録に掲載されたものだけでなく、省かれたものやその理由について注視することもまた、興味深い。
【ロビン・ヴォウズ『禁書目録の歴史──カトリック教会四百年の闘い』(白水社)所収「第6章 魔術と科学を検閲する」より】